…ということで、めぐりめぐってようやっと「史跡 武蔵国分寺跡」に到達いたしました。
今現在の武蔵国分寺の参道を南側に少し、大きな石碑が建っておりましたよ。
真ん中に木立があって視界を遮っておりますけれど、敷地としてはやはり結構な広さになりますなあ。
全体像としては(武蔵国分寺跡資料館でジオラマを見たりもしましたが)こんな具合でして。
金堂を中心とした東西約1.5Km、南北約1Kmの範囲には竪穴住居や掘立柱建物が広がり、寺院を支えていた集落は広域に及んでいたことがわかっています。
かような説明書きにありますとおり、中心線に金堂と講堂が置かれ、
左右対称の形で西側に経蔵、東側には鐘楼、そしてその外側にはそれぞれ僧房があったということですな。
こちらは(一番上の写真でも中央に見えております)「金堂跡」ということで。
高さを付けて囲ってありますのは、ここに建っていたというマーキングという以上に
建物の基壇があったことを復元しているようでありますね。
金堂跡からは発掘調査で塼(せん)と呼ばれる古代レンガが出土しており、基壇の上面は塼敷仕様とし、その色合いも出土品との近似色で再現しています。
金堂の裏手に伸びる通路の先に講堂の基壇がありますけれど、
その手前の右側、中途半端に柱が立っているのが御覧いただけましょうか。
これは幢竿(どうかん)の穴がここにあったことを示しているのですな。
写真では見えませんが、講堂前には幢竿がいくつもあったようです。そして、金堂の前にも。
講堂基壇の南側には、通路を挟んで約6mごとの間隔をおいて東西に3基ずつ、計6本の幢竿遺構が確認されました。…というのは幢竿(柱)の径は20cm程度と想定されます。金堂基壇の南側と同様に、講堂でも建物の威容を示すための幡が掲げられていました。
巨大建造物を前に大きな幟旗が翩翻と翻るさまは、武蔵国の鄙人に都の権威を知らしめる、
官製寺院としての絶大な宣伝効果があったろうと思うところです。
で、こちらが講堂跡ということになります。
ところでこうした古い時代の遺構へは、先ごろも武蔵国府の国司館跡を訪ねたり、
それ以前には大阪、難波宮跡に出かけたりしていますけれど、そもそものところは
斎王に興味を持って伊勢の斎宮跡へと赴いたのが始まりであろうとか。
それだけに武蔵国分寺跡資料館で、この公開講座「武蔵国府と伊勢斎宮」のフライヤーを見かけたときには
少々色めき立ちましたなあ、「おお、このような!?」と。ただ、すでに聴講希望は終了しており、残念至極…。
とまれ、昔々にはこんなところにこんなものが?!、あんなところであんなことが?!といった思い巡らしが
訪ねた場所場所で展開しようかと。武蔵国分寺跡もまた、そんな史跡のひとつでありましたですよ。