さてと、武蔵国分寺跡資料館を目の前にしながら、
長屋門やらムサシアブミやらに気を取られてしまいましたですが、改めて館内へと足を運ぶことに。
といって、この資料館、敷地としては旧国分寺村名主の屋敷地であって、
母屋はすでにないものの…と申しましたですが、建物の見てくれからすると、
名主の末裔が普通に住まっていた住宅だったのではなかろうと思えますなあ…と、
それはともかく館内へ。
入って早々、フロアに広がる武蔵国分寺往時の姿。まあ、当然でしょうなあ。
それにしても、右下端に七重塔が見えておりますけれど、そも聖武天皇の詔には
全国に国分寺を建てる際、「七重塔一基を置くことが規定され、塔の内部には聖武天皇勅願の
「金字金光明最勝王経」一部十巻の法舎利が納められ」ることとなっていたようです。
高さ60mとは相当に目立つというより、辺りを睥睨するような建物であったのではと。
十分の一スケールでもかなり大きいので、七重塔の復元模型は屋外展示になっておりましたよ。
ちなみに、聖武天皇が諸国国分寺の造営に掛けた思いのほどが
展示では『続日本紀』の口語訳で紹介されていたのですなあ。
私は徳の薄い身であるのに、おそれ多くも天皇という重い任務を受けている。しかし、民を導く良い政治を広めることができず、寝ても覚めても恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。昔の賢い君主は、みな祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家はおだやかで無事であり、人びとは楽しみ、災害はなく幸福に満ちていた。どうすれば、このような政治ができるのであろうか。この数年は、凶作がつづき伝染病が流行している。私は恥ずかしさとおそろしさで自分を責めている。
世襲の為政者の中には自らの適格性を疑ったりすることもあったでしょうから、
今の政治形態と単純に比べられはしませんけれど、どんなプロセスにせよ上に立つことになった人に、
自らを振り返る縁として聴かせてやりたいところでもあるように思ったものでありますよ。
ところで、展示としては思いのほか瓦がたくさんありましたなあ。
発掘の際、それだけたくさん出土したということなのでしょう。
武蔵国分寺は(上のジオラマに見られますように)金堂、講堂、経蔵、鐘楼、僧房、そして七重塔など
さまざまな建物から成り立っていますが、それぞれに必要な瓦は大変な量になったことでしょうなあ。
創建時に加え、再建時、さらに補修用を含め、100万枚ほどであったとも推測されているようで。
でもって、出土した瓦の中には文字の刻まれたものも多くあるようでして、
例えば左上には「高」の文字、右上には「入」の文字、右下には「都」の文字が見えておりますな。
これはもしかして、お城の天下普請にあたって大名が自らの担当区域の石垣に、
それとわかるような刻印を施したようなもの(大阪城公園には刻印石広場なんつのがありましたな)と、
同様でもあるかと思ったり。
実際、「高」の字のあるものは高麗郡が、「入」の字のあるものは入間郡が、
そして「都」の字のあるものは都筑郡がそれぞれ費用負担をして作られた瓦であると、
そんなふうにも考えられるようです。
昔の武蔵国を構成した各郡はこの図のとおりですけれど、
「多磨」と言われる地域が今の23区方面にもかなり張り出していることが分かります。
中野も杉並も(たぶんそれ以上の広がりで)多摩だったことがここからも窺いしれようかと。
とまあ、武蔵国分寺に関する少々の予備知識を得て、
このあとにはいよいよ史跡・武蔵国分寺跡を訪ねることになるのでありますよ。