「多摩籠り」を続ける中、運動不足の解消にもなろうかと近隣ウォークに勤しむことに。

昨2021年6月終わり頃(やっぱり蔓防適用中でしたなあ)、

武蔵府中(東京都府中市)を歴史ウォークでひと巡りしましたですが、

関わりが深いだけに「次は武蔵国分寺界隈を歩くか」と、かねがね考えておったわけでして。

 

実際、出かけかけたこともあったのですが、7月半ばには何度目かの緊急事態宣言となり、

また季節的にも暑さ厳しい気候となってきたところから、ずっと折を見ておったわけです。

それがようやっと実現に漕ぎつけた次第…と、さも大旅行に出かけたようでありますが、

近隣を歩いてくるというだけのことながら、何ともままならぬご時勢ではありますなあ…。

 

と、前置きはこのくらいにしまして、

とりあえず歩き始めはJR中央線と武蔵野線が交差する西国分寺駅からとなります。

でもって、改札を北側に出たあたり一帯の地名はこんなふう、交差点の看板でも分かりますな。

 

 

「西恋ヶ窪二丁目」と。ちなみにこの「恋ヶ窪」という地名は、

鎌倉幕府の確立に功績のあった武将・畠山重忠にまつわる伝説の故であるそうな。

源平合戦で活躍するも、そもそも頼朝が挙兵したときには敵対しており、

やがて傘下に加わるという動きであったことも、やがて謀反の疑いに繋がったりもしたでしょうか。

 

ただ目立つ存在だったのでしょう、頼朝亡き後、北条氏に目をつけられて(?)排除されてしまいますので、

いわゆる「鎌倉殿の13人」にはその名を連ねておりませんですな。

ま、大河ドラマでもそのうち重忠の活躍が見られることでありましょう。

 

ともあれ、その畠山重忠にまつわる伝説と言いますのは、こんな話のようで。

この(恋ヶ窪の)あたり、武蔵国分寺にも近く、鎌倉街道の宿場があったようですが、

この街道の往来に際して宿場の遊女・夙妻太夫(あさづまだゆう)と重忠とが恋に落ちることに。

 

源平の合戦が西国に転じ、これに出かける重忠に太夫が同行させてほしいと頼むも

戦場に連れていけるはずもなく、なだめて出かけていったところ、

太夫を思いを掛ける別の男が「重忠、討ち死に!」と偽りを伝えてしまうのですなあ。

 

世をはかなんだ太夫は近くの池に身を投げてしまい、

太夫の嘆きがことのほか強かったのか、墓所に松を植えると(本来、二本の葉であるところ)

葉がひとつの「一葉松」になってしまった…。

 

のちに、これを知った重忠は手厚く弔ったということですけれど、このお話が元となって

「恋ヶ窪」という地名が生まれたということのようでありますよ。

 

 

さて、先ほどの信号のところから路地を入っていきますと、雑木林の茂る「姿見の池緑地」に到達。

かの夙妻太夫が身を投げた池というのが、この姿見の池であるということです。

 

 

姿見の池は国分寺崖線に近く、付近の湧水などを集めて水を湛えているわけですが、

上から覗く限り(だいたい水面は上から見ると浅く見えるものですな)、

どうにも身投げできそうなふうではありませんなあ。

もちろん、鎌倉時代のままであるはずもないわけですけれど。

 

 

と、うららかな日差しに池畔でたたずんでおりますと、近くで「カワセミ!」との声が。

どこよ、どこよと思っているうちにも、一羽の鳥が池にダイブ!

一瞬の後、小魚を加えて枝に戻って行きました。

 

 

これがカワセミだったのですなあ。

大鑑巨砲的レンズでもないと、はっきりくっきりとはいきませなんだが、確かにカワセミだったようです。

ということは、水はきれいなのでありましょう。

 

ところで、姿見の池からほど近く、東福寺というお寺さんには「一葉松」が残されると。

鎌倉時代からそのままの松の木ということでもありませんで、枝を植え継いだものがあるそうな。

ただ入口はとうせんぼ状態で境内には入ることは叶わず…。

 

 

入口から目の届く範囲で松らしき木を探してみたですが、

「これかなあ…」と思ったりするところながら、もちろん「一葉」かどうかを確かめられるはずもありませんな。

 

 

というところで、今度はJR中央線を橋で越えて駅の南側へと向かいます。

いちばん上の写真で信号の下を通っているのが府中街道でして、

この道筋そのものではないものの、これと並行するようにかつては鎌倉街道が通り、

畠山重忠も「いざ、鎌倉!」と駆け抜けたことでありましょうけれど、

さらに昔には東山道武蔵路という古代の道が通っていたのですな。

駅の南側では、その遺構を覗いてみることといたしますよ。では、次回に。