JR中央線・国立駅前にあるたましん歴史・美術館を訪ねて

「古陶賞玩」、焼きものを愛でる展示のお話…のはずが、考古学の発掘の話になってしまいました(笑)。

 

同館ではさほどに大きくないスペースながらも展示室を区分け、「古陶賞玩」展と同時並行で

「Printing Printing ―萌えいづる現代版画―」という展示も行われておりましたので、

今度はこちらを振り返っておこうかと。

 

 

ただ、そうはいっても取り上げられた作家は4名で展示総数14点とはやはり少なめ。

折しも、お隣・立川の兄弟館・たましん美術館でやはり版画にフォーカスした展覧会を開催中ですので、

まあ、そちらへの誘いの意味合いがありましょうかね。入館相互割引も始まったということで、

立川にもそのうち足を運ぶことにいたしましょう。

 

と、それはともかくとして、展示室内でもっとも目立っていたのが靉嘔の作品3点ですなあ。

そりゃあ、いつも例によってレインボーカラーですのでね、モノトーンの作品もある版画にあっては

ひときわ目立つのもむべなるかな、でありますよ。

 

これまでに何度か靉嘔の作品には遭遇しておりますが、

だんだんと見慣れて「ああ、虹色ね」と印象が薄れ気味だったところがあるものの、

展示解説に曰く「グラデーションを構成する色は…時には192色まで細分化される場合もある」とあるのを見て、

そこまでのこだわりがあったことに改めて敬服した次第なのですね。

 

そこまで大変な作業に取り組みながら、展示作のように「うなぎ」を描いたり、「たつのおとしご」を描いたり、

どちらかというと、「きれい」、「かわいい」で終わってしまいそうな(まさにその見方に絡めとられてましたが)、

そんな見てくれに惑わされず、色彩分割の果てのようなありように目を止めてくれる鑑賞者を作品側から

選別していたのでもありましょうか。

 

かようなことを考えつつ、その虹色に目を向けたところ、今さらながら、

色のグラデーションだけで描きながら、「うなぎ」はうなぎとして、「たつのおとしご」はたつのおとしごとして、

いかにもそれに見えるように描き出されていることが「なんだか不思議であるなあ」とも思えたものです。

 

ところで一方、野田哲也という作家の版画作品はモノトーンで、靉嘔作品の見た目とは対照的。

ですが、「写真を使ったシルクスクリーンと木版を組み合わせて自身の日常の断片を描いた

日記シリーズによる作品で知られる」といった紹介(Wikipediaによる)がされておりますように、

パッと見、写真?という作品なのですなあ。

 

じっくり眺めれば、技法的には版画であるし、描き出されている(写し出されている?)ところも

写真そのものでないと分かるのですけれど、こうなってきたときに「写真」と「版画」の違いといいますか、

写真をベースに版画を制作する意味というか、意図というか、そのあたりを考え始めてしまうのでありますよ。

 

もっとも、写真であった姿の残し方が多いように思えるところが思い巡らしの元になったわけですが、

考えてみれば、例えばドガが踊り子を描くときに写真を材料に使ったりもしたのですよね。

何もドガばかりの話ではないでしょう。

 

と、写真を素材にタブローや版画を作るという形はあるとして、では写真そのものの作品性は?とも。

あまり写真鑑賞に馴染んではおらないところながら、それでもかつて島根県立美術館での写真展を見て

「ほうほう」と思いましたように、アート作品を作り出す技法として写真を用いることもあるのだなと。


絵画、版画、写真…などなど、単にそれそのもの以外として使ったりすることによって

新しい表現の形が生み出せる。アーティストというのは、試行錯誤しながら今も表現を見出すことに

取り組んでいるのでもありましょうか。現代版画というのも、そうした表現の発露なのですなあ。