状況的に多摩籠りの要ありと思えば出かける最寄りの美術館…というわけでもありませんけれど、
展示替えがあったということで、国立駅前のたましん歴史・美術館に立ち寄ったのでありました。
「古陶賞玩―やきものを愛でる―」という展覧会でありました。
展示替えといいましても、たましん(多摩信用金庫)のコレクションを展示するスペースとしては
古くから国立駅前に「たましん歴史・美術館」という小粒の施設があったものの、
おとなり立川に新しく「たましん美術館」が出来て以来、どうも力点はそちらに移ったようでもあり、
以前にもまして、こちらの展示は小粒感が漂うことになっておりますよ。
ですのでこれまでにも何度か訪ねて、「ああ、焼きもののコレクションがひとつの目玉だな」とは思うも、
たびたび目にする展示物もあるわけですな。ですが、そんな「前に見たなあ」という展示物の並ぶ空間でも
訪ねることに目の付け所が変わり、思い巡らす点もまた違ったものになる。面白いものです。
ということで、このほど気に留めましたのは後漢時代(1~3世紀)の壺、まさに古陶ですけれど、
そんな昔のものとは思えない意匠を凝らしたものでして。
今さらながらふと思い至るのは、この壺に施された装飾が「銅器を模したものであったのだなあ」ということ。
青銅器などでは、壺の両側に持ち手のように輪っか状のものが取り付けられていることがありますが、
その輪っかをも陶器で再現しているのですなあ(もちろん、輪っかを動くものとしては再現していませんが)。
考えてみますと、元は土器しかないところへ青銅器を作る技術が生まれたわけですから、
青銅器が作れるようになったのに、わざわざその意匠を模して土器を作るとは…とも思いましたですが、
要するに、後漢のこの時代、まだ青銅器は高級品で、それが手に入らないので真似た土器を作ったのかと。
解説にはこのような紹介がありました。
中国における青銅器は真剣国家の祭祀用具として殷時代から発展を遂げ…漢時代には高級な日用具として使われるようになり…
やはり当時は青銅器は「日用具」化しつつも、まだ「高級な」ものだったのですなあ。
と、この青銅器もやがて鉄器が登場して衰微するところにもなるわけですけれど、
この鉄器の利用、遥か西のアナトリア高原(今のトルコですな)では
ヒッタイト(紀元前15世紀~紀元前13世紀)がすでに製造法を知っていたとされておりますな。
ずいぶんとその伝播には時間がかかったようですなあ…というところで思い出しましたですが、
ちょいと前にEテレ『こころの時代〜宗教・人生〜』の再放送で取り上げていた考古学者の大村幸弘さん、
30年以上の長きにわたって、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘に携わっている人だということで。
基本的には考古学者はそれぞれ専門とする時代があって、
遺跡の発掘にあたってはその専門に該当する年代の地層まで掘り進め、そこで何かしら発見することを
主目的にしているようでして、裏返すと自らの専門分野とはしていない年代の地層には目もくれない、
穏やかでない言い方をしますと、そんな具合のようでありますね。
大村さんにもヒッタイトと鉄という主たる関心分野があるわけですが、30年以上も掘り続け、
さらに今後も続くという発掘は、ひとつの遺跡を表層から一枚一枚薄皮を剝がすように、
新しいところから古い地層へと少しずつ調査しながら作業を進めているのだということで。
そりゃ、膨大な時間がかかることでありましょう。
ではありますが、ピンポイントでターゲットたる年代ではないところの地層も調査している関係で、
「ヒッタイトよりも古い層から、最古級の鉄関連の遺物を発見し、世界的な注目を集めた」(EテレHP)と、
そんな紹介が番組ではあったのですね。つまり、鉄の利用はヒッタイト以前からあったかもしれないと。
ところで(完全に話は余談がメインになってきてますが)、それだけひとつの遺跡に生涯を傾けている大村さん、
考古学者としての肩書きは「中近東文化センター主任研究員」というもの。何とか大学教授であるとか、
そういう聞こえのよさそうな肩書とはどうやら無縁の、在野の(というのは適当ではないかもしれませんが)
研究者であるともいえましょうか。
ですが、大村さんは長い時間を要する遺跡の発掘を近くの村人たちに手伝ってもらう一方、
発掘から分かる歴史的なものごとなどを村人たちに対してたびたび講義していると、番組で紹介がありました。
ともすると、発掘を単なる「作業」でしかないと考えていた村人たちも、成果として出土品がどういうものであり、
そこから分かることが今の自分たちの暮らしとどう結びついているかということを知り、目的意識をもって
発掘に携わることになっていっているのですなあ(番組のタイトルは「歴史に辿る“自分とは何か”」でした)。
かつては全てが村の中で完結するような暮らしぶりであったところが、自分たちにも、自分たちの村にも
長い歴史とのつながりがあることを知ってからは視野を広く持ち、子供たちの中には大きな町の大学へと
進学するようなことにもなってきているそうなのでありますよ。
比較するものではないとしても、どこそこ大学教授の肩書の下、そも考古学に興味のある学生を抱えて
その指導をするということとは違う(あるいはそれ以上の)教育的実践を行っているのではとも思えるような。
ご本人としては、多くの挫折なども経て、振り返ると違う人生のありようを考えたりしてしまうこともあるかも。
さりながら、遺跡近くに出土品を収める博物館が作られ、そこでのボランティア・ガイドを村人たちが務めている、
そんな姿を目にしますと、「我が人生に悔いなし」といった思いが湧き起ってくるかもしれません。
…と、古陶賞玩のはずが、青銅器、鉄器、ヒッタイト、考古学者の大村さんの話になってしまいましたですが、
それはそれで。おかげで、いい話を備忘とすることができましたですよ。