年末から年始にかけて毎度のことではありますけれど、
TVの特番にはどうにもあまり見るべきものがないのでして(個人の意見です)、
VODに頼ったりしてしまうのですなあ。ただ、重~い映画は気分に合わないところでもあるものですから、
「まあ、アニメなら」と見てみたのが、映画『えんとつ町のプペル』なのでありました。
どこかの映画館のロビーでかつてチラシを見かけてタイトルだけは知っている、
とまあ、その程度の予備知識だったわけですが、ディストピアものであったのか…と。
登場人物はすべて外国の(それっぽい)名前になってますが、
ディストピア化した街並みは日本のようでありまして、外界と海で閉ざされているあたり、
島国っぽさが表れているところかと。
そんな中にやおら誕生するプペルはゴミ人間と言われてますな。
身体の部分部分がゴミの処分場にあったものでできているということで。
そんなガラクタは金属、機械っぽい体を見せることもありまして、
プペルは決してロボットというわけではないようながらも、ゴミ処分場とロボットという連想から
映画『ウォーリー』を思い出したりしてしまうところです。
さらにプペルと主人公ルビッチとの関わりという点では映画『ショート・サーキット』をも思い出すような。
という具合に、どうにもどこかで見た感のあるお話、設定だったりしましたけれど、
見ているうちに「これって資本主義と共産主義の確執であるか…」と考えるようになりましたなあ。
ディストピア化した世界をそのままにしておきたい側が決して「悪」の組織というわけでないようで、
元はといえば拝金主義化した世界(資本主義の表象でもありましょうか)とは袂を分かち、
これに毒されない(理想の?)コミュニティー(共産主義っぽいところです)を作ることにしたわけで。
ところが、外の刺激的な世界に目を奪われないようにと自らのコミュニティーを囲い込み、
外の世界こそが「悪」である、さらには外の世界なんつうものは存在しないと
人々を言いくるめるようになってしまう。その外界との遮断手段というのが、
常時えんとつから黙々と吐き出される黒煙によって空を覆い尽くしてしまうことだったのですなあ。
「空の向こうなどは存在しない、なんとなれば見たことのある者がいるか」という理屈ですが、
そりゃあ、わざわざ見えなくしているのですからねえ。
行き過ぎた資本主義のなれの果てへの対策として打ち出されたのが、
消費期限のある貨幣という考え方は、貯め込んでおくことができないという点で大した発想なのかも。
マルクスが『資本論』で示した「W-G-W」から「G-W-G」への転換に抗する実効策でもあろうかと。
( 「W」はドイツ語の「Wert」(価値)、「G」はやはりドイツ語の「Geld」(貨幣)です)
そうしてこの考えは広く受け入れられなくてはならない(「世界革命」の指向につながりますな)とするも、
これを受け入れない世界はあるわけで、そうなると自らの理想郷(そう考えているわけですね)が
外界から毒されてはならんと囲い込みに出るあたり、統制が行き過ぎてしまうことから
ソ連や東ヨーロッパの体制崩壊を思い出せるところなわけです。
お話としては、外の世界は無いとする体制側の画策に対し、
ルビッチとプペルは風穴を開けて、人々に外の世界の存在を示して見せるのですな。
東側の国境が自由に通行できるようになった状態で、このこと自体は快哉を叫ぶべきこととしても、
その後の状況、どっぷり資本主義に浸る世界が果たしてどれほど良いものであったのかとなると、
これはこれで疑問を抱くことにもなったのではないでしょうか。
この話にその後はありませんですが、そもそもに立ち返りますと
行き過ぎた資本主義への疑念から生じた別世界が崩壊したとしても、
資本主義への疑念自体が無くなったわけではないのですよね。
そのあたりに気付いてもらえるとするならば、この映画の存在価値はあるといえそうですが、
果たしてどうでありましょうかねえ…。