青森に行ってきた…と言いながら、帰って来て半月にもなろうというのに、

青函連絡船のことしか記しておりませんなあ(苦笑)。

 

 

ではありますが、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸のお話、

あとひとつ、連絡船の歴史などを展示解説するコーナーのことだけ、触れておくことにいたそうかと。

 

 

話は、青函連絡船のそもそもというにしては、すごいところから始まるのですなあ。

こんなぐあいです。

津軽海峡の往来は、平安時代の文治五年(1189年)源頼朝の奥州征伐の難を逃れた奥州藤原氏一族の渡峡や、室町時代の永享四年(1432年)津軽の豪族、安東氏の渡峡などから記録に現れます。

まあ、海峡の往来として記録に見られるのがこの辺りからということで、

青函連絡船からは遥かな昔でしょうけれど、東北地方にもアイヌの人々が暮らしていたことを思えば、

記録に残らない昔から行き来はあったのではありましょう。

 

とまれ、その安東氏の渡峡ののち蝦夷地経営が進められ、江戸期には北前船が

本州側の十三湊、青森とともに箱館、松前、江差などにも寄港するようになっていますので、

1854年に安政五カ国条約の締結で箱館が開港されることになった時には、

すでに港らしい港になっていたのでありましょう。

 

ただただ遠くのはじっこを開港してお茶を濁すばかりの作戦ではなかったようで。

このことは、今でこそ「どうよ…」と思うものの、伊豆・下田もかつての位置づけ、賑わいは

今とは異なるものであったろうと考えたりするところです。

 

と、余談に流れたところを本筋に戻しますと、青森・函館間の近代的?定期航路は

明治5年(1872年)に北海道開拓使によって始められたそうな。

 

 

明治日本の近代化が進む中、まだまだ需要の多かった国内海運で競争があったことはよく知られますが、

渋沢栄一の共同運輸会社と、対する岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社が熾烈な価格競争を行ったという。

これで共倒れになっては日本の近代化に支障ありと、西郷従道らの仲立ちで両社は合併し、

日本郵船会社ができるわけですが、青函間の航路も、明治18年(1885年)に日本郵船会社が運航を担うことに。

(今では日本郵船といえばはっきり三菱系なわけで、岩崎のしたたかさを感じたりもするところです)

 

その後、本州と北海道の鉄道路線と併せ、海峡航路を国鉄が一括管理して、

いわゆる「青函連絡船」となるの明治41年(1908年)であったそうな。車両を船腹に直接積み込む形は

も少し後の大正14年(1925年)のようですが、そこに至る道が開かれたというところでしょうか。

 

戦争中は物流の動脈であることから、空襲に曝され、洞爺湖台風による大事故なども経験した青函連絡船、

いちばんの危機は結局のところ、海峡トンネルの開削だったのですなあ。

 

これによって一気通貫の利便性は圧倒的に向上したわけですが、

貨物輸送にとってはそれで良いとしても、旅客として乗り込む旅行者の気分としてはどうですかねえ。

ビジネス客であれば移動が速いに越したことはないところながら、

もそっと違う要素を楽しみにもしている旅行客には、時間がかかってもむしろ船で渡っていく感覚は

旅の一部として(トンネル通過には無い)記憶を残すことになったりするような。

 

 

手前ごとながら、先にも記しましたように青函連絡船が廃止になると聞いて

「乗りに行かねば」と思った人は自分以外にもたくさんいたことでしょうし。

このあたり、先日触れた「不便益」という言葉が思い出されるところではありますね。

 

結局、連絡船の歴史に関する展示解説を見て回りつつ思いはあちこちとなしまいましたが、

八甲田丸を下船して振り返り見れば、かつては連絡船と結ぶ線路もあった青森駅構内であったろうところが

再開発された商業施設になっておりました。

 

 

世は移り変わるものですなあ…。