ふいと思い立って散髪に行ってきました。

4カ月以上もほったらかしにしていたので、ぼさぼさもいいところ。

まさに思い立ったが吉日というわけで馴染みの店に行ってみると、少々の待ちが生じたのですなあ。

 

ふいな思い立ちですから待ち時間を見越して本を持参するということもなかったわけで、

おのずと店に備え付けの週刊誌やらが置いてある書棚を物色することに。

 

そこで、大雑把な年代に区分けて、同じころに日本史と世界史でどんな出来事があったのかを並べて紹介する、

例えば日本で大化の改新が起こった頃(645年)、遥か西ではイスラムが台頭し、ササン朝ペルシアが衰退とか、

そんなふうに大づかみで紹介する、どうやら子供向けの一冊が目にとまったのですな。

その本の中のコラム欄に目が留まり、「ほお、そうであったか」と。

 

「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら、世界は変わっていただろう」。

よく知られたこの言葉に出てくるクレオパトラは、シーザーとクレオパトラ、アントニーとクレオパトラの、

あの有名なエジプトの女王ではなしに、シリアの女王クレオパトラ・テアであるということだったのでして。

 

後に検索しても、これに関する記述はほとんどがエジプト女王に対してのこととなっていますが、

果たして本当に鵜呑みにしていいものかどうか。やはりこうしたことも物事を批判的に見ることではありましょうか。

 

ともあれ、そんな気付き?に出くわしたのも、ふいと散髪に出かけた待ち時間という不便があったればこそかと。

そんな思い付きでもって、先ごろEテレ「デザイントークス+」で紹介された「不便益」を思い出したのでありましたよ。

 

不便だからこそ得られる利益を「不便益」と名付け、逆転の発想を促そうというものですが、

世の中、どうも便利か不便かの二者択一のもと、「便利」と受け止めれれば不具合には目をつぶり、

反対に「不便」と位置付けられてしまうと、実はいい部分もあることはスルーされる傾向があるような。

 

これって、今さら気付くのも遅いのでしょうけれど、一か八か、YESかNOか、「0」か「1」かという、

デジタル的発想だったのですなあ。機械はデジタルで進化してきましたけれど、

どうやら人間の考え方までがデジタル思考を迫られていて、それと気づかぬうちに染まってしまっているような。

 

後押ししているのは、資本主義的なもっともっとの煽りでしょうか。もっともっと便利に、もっともっと効率的にと。

このあたりの例えとして、スポーツや科学も?てなことをしばらく前に触れましたけれど、

つい先日の新聞に飯島澄男・名城大学終身教授がカーボンナノチューブを発見した経緯が出ていたのを見て、

どうやら科学の世界には見方の違う人もいるのであるか…と思ったものです。

 

炭素原子で出来ている「フラーレン」というものがありまして、これはこれで有用なことから

フラーレンの大量合成が試みられていたわけですが、合成過程で煤のようなものが残るのだとか。

これに対して、フラーレンは便利、煤はいらないとなって、もっともっと純粋にフラーレンを取り出せないかと

研究は向かいそうな気がしますが、飯島さんの目の付け所は煤の方であったそうな。

実はそこにカーボンナノチューブが潜んでいた(?)のであると。

 

これを読んだときの印象としては、誰もが(実は比較的多数が)便利と言っているから良いとか、

誰もが(実は比較的多数が)不便と言っているから良いところは無いとか、

そういうことでは割り切れないものがたくさんあるのに、うっかりすると見落とししまうのかもということ。

むしろそこに着目してみましょうというのが「不便益」でもあろうかと思うところです。

 

未だに「スマホ」を持っていない者としては、誰もが(実は比較的多数が)持っている前提で

あれこれの仕組みが構築される中では「不便かも…」と思うことが全くないとは言いませんが、

持っていることで「不便益」を失うことにもなるだろうなあと思ったり。

 

まあ、スマホを持たない分、電車の中でも、町なかでもきょろきょろしながら過ごして、

思わぬ発見に出くわすのを良しとしておりますしね。

 

はて、鼻の高さが問題視されたクレオパトラはエジプトの女王でありましょうか、

はたまたシリアの女王だったのでありましょうか。

ネットの世界では誰もが(比較的多数が)エジプトの女王だと言っているようですが(笑)。