一読して、ついつい「ほんとかいな?」と思ってしまったのが、奥山景布子『流転の中将』でありました。

主人公は桑名中将・松平定敬、幕末の動乱の最中、流転の運命をたどったであろうところながら、

本当にこれほどに各所へ流れ流れた人生を送っていようとは、「ほお~」と思ったわけでして。

 

 

幕末のひところ、京都にあって3人まとめて「一会桑」とも言われた人たちがおりましたな。

「一」は禁裏御守衛総督の一橋慶喜、「会」は京都守護職の会津藩主・松平容保、

そして「桑」が本書の主人公、京都所司代であった桑名藩主・松平定敬、この三人。

ちなみに容保と定敬が兄弟とはよく知られたところでありますね。

 

ですが、「一会桑」の中でもっとも注目されにくい(?)定敬が、実はいちばん流転の生涯であったようで。

流転という言葉の文字面どおり、あちらこちらの土地へ流れ転び、移りゆくという意味で、ですが。

 

「一会桑」の京都掌握もやがて慶喜の将軍位継承、薩長討幕勢力の伸長などの変転で終わりを告げ、

鳥羽伏見の戦いが始まることで、かつての立場とは打って変わって追いこまれることになってしまう。

この時慶喜が大坂城を脱出、急遽海路で江戸へ戻るにあたり、容保・定敬の二人も同行した(させられた)ことが

流転の始まりだったわけですが、さっさと恭順を示した慶喜は江戸を明け渡して水戸に籠り、

その後は駿府で穏やかに(心中は計り知れませんですが)過ごして、さほどの流転は無いわけです。

 

一方、松平容保は新政府側が抱く京都以来の恨みつらみを一身に受け止めることになって

徹底抗戦路線をとったとった(とらざるを得なかった)あたりは、しばらく前の大河ドラマ「八重の桜」にも

描かれたところでしょうけれど、会津若松で敗れた後は会津藩の斗南移転で容保も斗南にいたことはあるも、

結局のところは江戸で生涯を閉じましたな。

 

これに対して松平定敬はといえば、大阪から江戸へ下ったのち、

長岡藩・河井継之助の助力で船に乗り新潟へ。柏崎は桑名藩領の飛び地であったようで。

何しろ西から新政府軍が攻めてくる中、兄の容保は本領の会津に戻れたですが、

定敬の本領は桑名ですので戻るに戻れないわけです。

 

その後、日本海側にも新政府軍がやってくるところから、兄に合流すべく会津へ。

さらに会津危うしとなれば、奥羽越列藩同盟の援軍を求めて米沢、仙台と巡る。

頼りの同盟も腰砕け状態と見るや函館に渡り、榎本武揚や土方歳三と合流することに。

 

見る限り一貫して、徹底抗戦路線の定敬ですが、函館に集まった新政府敵対勢力の中では

かつての大名、それも松平のプリンスがおわすことは目の上のたんこぶでもあったのかもしれませんですね。

定敬の方は「このままでは終われない」「死に場所を見つけられない」てなことでもあったでしょうか。

その結果、一旦は上海に潜伏し、再起を期す…として、いったいどういう再起なんだと思うところですけれどね。

 

こうした流れ流れる定敬が描かれて、上海にたどりついたときには(冒頭に記しましたように)

「ほんとかいな?」と思ってしまったわけですが、上海に渡ったこと自体は本当のことのようで。

ただ、渡航以来、定敬の身分を知る人とておらず、雑役夫のように過ごしていたとは

いささかの物語的脚色でもありましょうかね。

 

ともあれ、こうした捨て身の結果として、プライドに縛られていたことを感じたりもしたのか、

日本に戻り、投降する覚悟を決めるのですなあ。背景として、そも戊辰戦争の始まった当初から

本領の桑名では不在にしていた定敬の真意を確かめることもできなまま、早くに恭順の意を

新政府側に示していたわけでして、定敬自身はこれを受け入れかねていたのでしょう。

 

流転の果てとして、ここであたかもでプライドをかなぐり捨てて帰国という決断があったように思える一方、

結局のところ定敬の投降は自らのプライドに適う死に場所として考えた結果でもあろうかと。

やはりお殿様はお殿様、プリンスはプリンスだったということになるのかもしれません。

 

その後時を経て謹慎処分の説かれた定敬は明治政府に対して平民になることを願い出たと

Wikipediaでは紹介されておりました。これは認められなかったようですけれど、

定敬の中のお殿様の側面での身の処し方を全うくした以上、

後の世は平民としてという思いにも立ち至ったのかも。

 

定敬の生涯を追って、派手派手しい戦闘の渦中に定敬が立つことは無かったことから、

何につけ作品の主人公としては取り上げにくいところであったでしょう。

それだけに「一会桑」の中では最も地味に(思える)松平定敬ですが、

実は劇的に流転の生涯を送っていたのだったとは、思いもよらぬことなのでありました。