久しぶりに東京へ行ってきました…って、一応、東京都民ですけれど。
多摩に住まって逼塞している(つもりはないところながら)ものですから、
要するに都心部というか、23区内に出かけるは4カ月ぶりくらいかと思うところです。
まあ、最寄り駅から乗り込む電車が「東京行き」の中央線快速だものですから、
東京へ行くというのは結構自然な感覚でもあるのですけれど、
ともあれその電車が新宿駅に到着し、乗換という段になって、少々たじろいだりして。
なんだか(多摩に比べて)ウイルスがうようよしてるんだろうなあ…と。
印象だけにもせよ、茶化して話すことではないですな。
でもって、出かけた先は池袋の東京芸術劇場、読響の演奏会を聴いてきたのでありますよ。
フライヤーには鈴木雅明・優人親子が写っておりますが、
いずれにせよ思い浮かぶのはバッハ・コレギウム・ジャパンとの関わりから古楽の人というイメージかと。
さりながら、すでにして子の方は読響のクリエイティブ・パートナー(?)としてたびたび指揮台に上がり、
父の方もとうに古楽の枠を超えた活動をしているようですから、モダン楽器のオケに登場しても不思議はない。
今回は父の指揮、子のオルガン独奏によるプーランクの協奏曲が演奏されたのでありました。
ところで、最初に演奏されたカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのシンフォニアで、
「ああ、やっぱりノン・ビブラートなのだあね」とは宜なるかなではありますが、
メイン・プロであったメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」もまた同様に。
ロマン派くらいになりますと、当たり前のようにビブラートを掛けた演奏に接してきた先入観があるわけですが、
Wikipediaの「ヴァイオリン」の項には「オーケストラにおいてビブラートを常時かける現在の習慣は
20世紀中頃に世界に広まったもの」という記載がありますして、むしろメンデルスゾーンのみならず、
その後のマーラーやリヒャルト・シュトラウスなどの音楽でも常時ビブラートとは無縁の演奏がされていたと、
そんなふうにも言えましょうか。
ですが、今やオーケストラの弦楽器で常時ビブラートはごくごく普通の状態にあるわけですから、
もちろん指揮者の指示によって「ノン・ビブラート」にしているとしても、いささかの戸惑いもあろうかと。
そんなふうに考えてしまったからかもしれませんですが、長く音を引く部分にさしかかりますと、
ヴァイオリンなども「どこか所在無げな音であるな」という印象があったのですなあ。
これはもしかすると、奏者の思い、もしかしたら無意識であるかもわかりませんが、
それが音に乗っかったということなのかもしれませんですね。
メンデルスゾーンが聴いて思い描いていたのはなるほどノン・ビブラートの音であったとして、
その当時の再現を試みるのもひとつのやり方でしょうし、一方で楽器や奏法に進化(変化)が見られ、
より豊かな響きを求めるようになったというのも歴史の流れの中では事実でしょう。
どちらがいい悪いではありませんので、考え方や好みによって受け止め方は人それぞれでありましょうね、きっと。
ま、個人的には(ここまでの流れからして想像がつくものと思いますが)ちと座りが悪かったかなあと。
かといって、ピリオド楽器による古楽アンサンブルの演奏にはいささかの違和感も抱いたことはないのでして、
繰り返しにはなりますが、メンデルスゾーンとかこのあたりの曲をモダン・オケで聴くことに
馴染んでいるからということかも。極めて個人的な受け止め方ではありますけれどね。
オケの規模として特段こぢんまりさせるでなく、モダンオケらしい規模で演奏自体はダイナミックなものだっただけに
そんなふうに思ったのかもしれませんですよ。