ある人物が別の人に成り代わって、別の人としてその後の人生を歩む…てな話はたくさんありますですね。
もっともさすがに現実にたくさんあるとは思いませんが、創作の中には実にいろいろと。
すぐに思い浮かぶのは映画「太陽がいっぱい」でしょうか。そして、今回見た「偽りの人生」もまた。
「太陽がいっぱい」では、友人ながら傲慢な金持ちであるフィリップ(モーリス・ロネ)に
諂いながらも野心を胸に秘めるトム(アラン・ドロン)が計画殺人でフィリップに成り代わるわけで、
トムは冷酷な殺人者でしかないわけですが、こう言ってはなんですが、フィリップはともかく
トムには感情移入できてしまうのですよね。ああ、あるかなあ、こういうことも…と。
ですが、「偽りの人生」では双子の兄弟(ヴィゴ・モーテンセンの二役)の弟アグスティンが
兄ペドロに成り代わることになるのですが、末期がんを患った兄に「殺してほしい」と頼まれたとはいえ、
実際にふとしたことで手に掛けてしまうあたり、いささか理解しにくいような。
ある時点で二人の人生は全く交差しそうになり軌跡をたどるのでして、
兄は故郷と思しき貧しい村に残り、なんとか養蜂で生業を立てるほか、
悪党仲間とともに悪事に手を染めていたりする一方、弟の方は都会に出て医師になり、結婚もして…と、
常識人であり、特段の不自由もない暮らしをしているだけに…です。
背景は悟るべきであったのかもしれませんが、話の中でははっきりした説明らしきところはなかったなと思いつつ、
長らく交信も途絶えていた双子の兄弟が出会ってみれば、子供の頃の確執などが急にフラッシュバックしたりも
するのであろうなあと思い返したりしたのでありますよ。
そんなことから兄に手を掛けたと想像すれば、今の生活から逃れたいがためばかりで
兄に成り代わったわけではなかろうとも思うところです。単純に言えば、殺人を犯してしまったわけで、
それを隠蔽する手段としての成り代わりであって、積極的に兄の人生、生活を望んだのではないような…。
まあ、そんなこんなを考える中で、別の生活、翻っていえば今の自分とは違う生活というのを望むというのは
どんな思いであるかなあとも。よくよく考えれば、自分自身であって、「これが自分です」というありようを
日々の中で見せて生きている(人生を送っている)かどうかは考えどころだと思ったりするわけでして。
自分自身がこうだと思っている自分、友人から見て「おまえはこんな」と思われている自分、
職場などでこんな人と受け止められている自分、必ずしも一様に収まってはいないような気がしますですね。
そして、自身がこうだと思っている自分が本来であるかといえば、必ずしもそうだとは言い切れないような。
すでにしてどこかで何かを偽っているようなところが無きにしも非ずであるとも言えましょうか。
「太陽がいっぱい」のトムのように、お金持ちであるとか賑やかな生活ぶりとかに憧れて(妬んで)
別人になりたい、なりすましてやろうと考えることもありましょうけれど、人はすでにして「偽りの人生」を
誰もが歩んでいると言えないこともない。
とまあ、本作のアグスティンの意図の計り知れなさに思いを巡らすうちに
そんなことを考えたものなのでありました。