先日は映画「おとなの恋の測り方」を見たところで、なにかと「普通」と比べて云々することを疑ってみたわけですが、
そうは言いながらも、その実、何かと「普通である」、裏返せば「特異でない」ことに安心する向きもあるような。
まあ、肝っ玉の小さい自分であるが故の発想かもしれませんけれど。
とまれ、そんな具合ですから、いわゆる「普通」と異なることをもって自分の側の「普通」や「常識」にすることがあったら、
それはそれですごい(いろいろな意味でですが)ことであるなと思うのですよね。
そんな傍から見たら普通でない、特異であると思える生活をする家族を描いたのが映画「はじまりへの旅」なのでありました。
アメリカ・ワシントン州の深い森の中、というよりはっきり言って山の中に
ベン・キャッシュ(ヴィゴ・モーテンセン)は6人の子供たちとともに暮らしているのですな。
子供達は学校に行かず、父親ベンに与えられた課題をこなし(もっぱら読書のようですが)、
いわゆる運動にあたるものはサバイバルの技術であって、
山を走り、岩を攀じり、弓やナイフで生き物と捉えて食料とする、
そんな毎日を送っている…となりますと、いわゆる「普通」とはかけ離れた暮らしぶりであろうかと。
ですから、故あってこの家族が町へ出、ダイナー(日本的にはドライブインとかファミレスとか)に入った折、
子供たちから(食べたことがないので?)ハンバーガーを食べたいてなリクエストが出ると、父親は即断却下、
また「コーラって何?」と(これまたその存在も知らなかったのでしょう)尋ねられれば「Poison water!」とひと言。
結局こんな具合で、「食べるものがない」と判断した父親の号令一下、ダイナーを立ち去る家族なのでありました。
こうした、いわば浮世離れした生活というのは、ある意味、強い信念が無ければできたものではありませんね。
自分たちは少数派ではあるかもしれないけれど、「普通」じゃないとは思っていない。
むしろ周りの大多数の方が「普通」じゃないと思っているわけで。
ときにこうしたことでの強い信念の源泉に宗教があったりすることがあろうかと思うところですが、
彼我の違いに対して、自分たちの側にこそ正しさはあり、取り巻く周囲の方がおかしいのだから、
そちらの常識には従わないなんつうことも生じたりするかもです(宗教戦争の背景のように)。
ですが、こうしたときに大事なのはそれぞれがそれぞれを尊重するようなところではなかろうかと。
例えばですけれど、昔の映画「刑事ジョン・ブック 目撃者」で取り上げられていたアーミッシュの人たちは、
周りから見ると特異な生活様式でいるわけですが、その周りの人たちの暮らしようは尊重するから、
自分たちのありようも尊重してもらいたいという立場ではなかったでしょうかね。
既存の権威、権力に対抗するのは時にスカッとするところもあるわけですが、
それが行き過ぎるさまを見ると、口あんぐりになってしまったりもする。
この映画で描かれる家族の姿からはいろいろと考えることが見て取れますけれど、
その受け止め方はひとそれぞれでありましょう。
Wikipediaには「コメディ映画」とあって腰を抜かしそうになりましたが、
考えてみれば受け止め方がさまざまということは、どういう受け止め方もあるということですね。
さらに考えてみれば、いろいろな映画を見てあれこれ(映画そのものと関係なさそうな)ことに思い巡らしているのも、
少数派なのかもしれませんですね(笑)。