先日見た映画「ワンダー 君は太陽」の主人公オギーくんは「僕は普通の10歳じゃないんだ」と。
なんとなれば、「生まれてから27回も手術した」という顔がその手術痕が残っており…。
ですが(ここでカッコ書きにしたのはフライヤーからの引用部分ですけれど)、
「普通じゃない」ってどんなことだろうかなと思ったりもしていたのですよね。
確かに手術27回は誰にでもあることではないので、普通とは言えないでしょうけれど、
ここで普通じゃないこととして考えられているのは手術の回数ではなくして、
その結果である手術痕の残る顔ということになりましょう。
オギーくんはさまざまな視線にさらされることになりますが、
それは見た目が普通とは違うからであるとして、そもそも「違う」ということを引き比べている
「普通」とはなんであるかなあ…ということでして。
考えてみれば、ひとりひとりの人間は個々に別物ですから、
生物的に「ヒト」であることは共通しているとか、遺伝子的には親族関係の中に近しいものがあるとか、
そういった類のことはあっても、他人との括りの中で共通点を探るとすれば、かなり大雑把なものではなかろうかと。
例えば背が高い、低い、太っている、痩せている、目が大きい、小さい、鼻が大きい、小さいなどなどなど、
あれこれ言いますけれど、いわゆる平均値との比較であったり、あるいは比べるものごとの相対性であったり、
かなり漠たる「普通」イメージのなかで平気でものさしを当ててしまっているのかも。
そして、そんな漠たる「普通さ」から外れたものに対して、何か「違う」ものを見るようなふうになってしまっているような…。
(このあたり、もちろん日常においての自戒も含めておりますが)
と、オギーくんの映画を見ているときにぽわんと考えたことでありましたけれど、
たまたまにもせよ、今度は「おとなの恋の測り方」というフランス映画を見るに及んでやっぱり頭を整理しようかと。
例によってあらすじをAmazonから引いてみますと、このような。
敏腕弁護士ディアーヌは仕事のパートナーで、3年前に離婚した元夫とオフィスで会うたび喧嘩ばかり。ある日、アレクサンドルという男性から彼女の携帯を拾ったとの電話をうける。 知的でユーモラスな話に魅かれたディアーヌは、彼と会うことに。ドレスアップし、期待に胸を膨らませた彼女の前に現れたのは、自分よりもずっと身長の低い男性だった。 落胆する彼女だったが、茶目っ気たっぷりのアレクサンドルにいつのまにか魅了されていく。リッチで知的で才能あふれる建築家の彼とデートを重ね、惹かれていくディアーヌ。ただ、どうしても身長差が気になってしまう。果たしてこの恋の行方は…?
ここで「(女性の)自分よりもずっと身長の低い男性」とあるのは、
中途半端な設定をすると生半可なリアルさが出てしまいますから、確か136cmだったでしょうかね。
なるほど大人の身長とはにわかには思いにくい線で作っているわけですけれど、
アレクサンドル役のジャン・デュジャルダン(どっかで見たなと思いましたら「アーティスト」の主人公だったのですな)は
180cmを超える身長だそうで、さまざまに技術を駆使した撮影は大変だった…とは余談ということで。
とまれ、このアレクサンドルにも忍び笑いを伴うような視線が常に向けられることになるのですよね。
容姿の良し悪しを語るときに「背が低い」は決して良い方の評価点では無いように思いますが(あくまで一般的に)、
ロートレックのように小さいときに怪我によるとも、あるいはそれこそオギーくんではありませんが遺伝子疾患の結果とも、
傍からは知りようのない事情やら原因やらによってそうなってしまっているのかもしれない。
ただ、オギーくんの手術痕であれば見た人が「どうしたの、いったい?」と思うところが、
アレクサンドルの身長に対しては「どうしたの、いったい?」を通り越して、うつむいてしまうところがあるような。
こうした反応がヒトに現れる背景なりがあるはずなんですが、そのプロセスにあるものを意識しなくなってしまって、
単にインプット(極端に背が低いといった「普通」と違う人を見かける)とアウトプット(失笑したりしてまう)という関係だけに
なってしまっているとすれば、あまりにも思慮を欠いてしまってもいるような。
と、そんなことをつらつら考えてみたりしたときに、
これは何も他の人を見るときのことばかりではないのであるなということに気付くのでありまして、
我がことを振り返る際に何かしら、どこかしら「普通と違う」とか「普通と劣る」とかいうことを思ったとして、
そも「その普通とは何ぞ?」ということに目を向けてみてもいいのかもしれんなと改めて。
なにくれとなく劣等感を抱いたりする僻み根性の持ち主なので、いいことに気が付いたなと(笑)。
あ、とやかく言いましたが、映画はまずまず楽しめましたですよ。