ちょいと前に新聞のコラムに取り上げられており、
ふと気になって手に取ったのが「シブヤで目覚めて」という一冊でありました。
「シブヤ」とは、要するに東京の渋谷のこと。これがカタカナ書きされているのは、
日本人ではなくして、チェコの若い女性作家の手になる作品だからでありましょうか。
1991年プラハ生まれですので若いといって差し支えないものと思いますが、
カレル大学の日本研究科を卒業されているというものの、この大学では日本研究科が哲学部にあるとは。
日本人としては、何だか大げさであるなと思ったりもしたところです。
ところでストーリーですが、プラハと渋谷を行き来するというその構成、
さらにその中には日本の大正から昭和初期に活躍した作家とされる川下清丸の物語を通じて、
二重三重に時空間が重なりあって、登場人物たちがあちらにもこちらにも擬えられるような、
そんなたゆたう感じが、キーワードの「水」でもってよおく表されているものだと思いましたですよ。
日本の中で渋谷という町に目が留まるのは、洋の東西を問わず若者らしいところなのであるかと思ったり、
はたまた大正・昭和の日本の文壇に集まった作家たちを川下の周辺人人物と生き生きと描き出して、
日本人でさえうやむやの中においてしまいがちな当時の日本文学を
若いチェコの作家から再認識させられる新鮮さも感じたりしたものです。
主人公のヤナが研究対象としている川下清丸なる作家はもちろん虚構の人物なのですけれど、
知らない時代の作家にこういう人がもしかしていたの?と思わせるほど丁寧に作り込んでいるのですな。
とかく海外からの目線で日本文化というときに、マンガ、アニメの存在は忘れてはいけないものでしょうし、
それだけに日本人にももちろん日本のマンガ、アニメは人気なわけです。
ところが、マンガ、アニメを入り口にして日本の文化に触れた海外の若い人たちが
そこから思わぬ深みに嵌っていくことを(TV東京の「Youは何しに日本へ?」などからも)知るにつけ、
反面、日本の若者にはそうしたところになかなか行きつくものではないようですな。
まあ、自国の文化と他国の文化の捉え方とその関心の向く先は
若いかどうかはともかくも、一様であるはずはないわけでして、かく言う自分自身、
若い頃に日本の文化などにわざわざ触れてみようとしたこともなかったのですから、
とやかく言えた義理ではありませんですが…。
ところで、そんな興味深い面を持った作品ですけれど、当然のごとく原語はチェコ語であって、
それを日本語に翻訳したものを読んだわけですけれど、その中にチェコ人であるヤナが
日本語で書かれた川下作品をチェコ語に翻訳するところが出てくるのですなあ。
そうすると、日本語作品をチェコ語に直したはずのものを、今度は日本語訳で読んでいることになる。
このなり替わりを文章としてうまく表現できていたのかどうか、できていないというつもりはありませんが、
できていたと感じることもなかったような。これ、難しいですよね。
思い出したのは、ずいぶんと昔になりますけれど、確か俳優座劇場で見たシェイクスピアでありまして。
「お気に召すまま」という作品では、主人公である元公爵の娘ロザリンドは途中で男装して登場するのですが、
このロザリンド役を(当時の上演に近いのか)男性俳優が演じていたのでありました。
つまり、男性が女性のロザリンドを演じ、そのロザリンドが劇中では男性を演じていたわけです。
元が男性ですから、ロザリンドが男性を演じる場面になったときに「地」でよいかといえば、
そんなことはないのですよね。女性が男性を演じているらしく、男性が演じるということの難しさがあるわけで。
もっともこの台本はそもそもが喜劇ですので、その演じようも含めて笑っておればよいのですから、
あまり深く考えない方がいいのですが、この男性⇒女性⇒男性が男性=男性ではないのと同様に、
本作の中に出てくる日本語⇒チェコ語⇒日本語が単純に日本語=日本語であってはよろしくない、
そのあたりとの類似性で思い出したような次第です。
余談が長くなりましたけれど、何がといってこの小説、他国の人から自国の文化の再認識を迫られることに
ちと居心地が悪く感じるのは狭量というものなのでしょう。先ごろまでは日本の 国文学研究資料館館長が
アメリカの学者(ロバート・キャンベル)であって、同館の展示を見ては示唆を得たりもしたものですから。
とにもかくにも、日本の文化はマンガやアニメばかりではないでしょうに、
それを自国の人々にさえ伝えきれていないのですよね。
あたかも受け手に媚びるような形で「クールジャパン」などと言って政策化するほどの浅知恵しかない、
改めてがっかりしてしまうような。なんだかなあ…。