ちょいと前に新聞のコラムでこんな記載がありましたなあ。
モンゴルで遊牧民の生活をつぶさに眺めたこととして。
…四季に応じた放牧地への移動、血や内臓もすべて無駄なく食べるなど、さまざまな遊牧文化の知恵に触れた。牛ふんを燃やして使うところは、エネルギー循環型だ。
これを思い出しましたのは先ごろ訪ねたムサビの美術館で、
3つめの展示がある部屋の中で、この言葉を見かけたからでもありまして。
「牛は鳴き声しか捨てるところしかない。」
手前に積んであるのは、鞣した牛の皮や鹿の皮であると。
先のコラムにありました「血や内臓もすべて無駄なく…」とは、
今ではモンゴル遊牧民の知恵とも目されることかもしれませんですが、
かつては日本でも、牛をまるまる全て活用していたのでしょうなあ。
ちなみにこの部屋の展示タイトルは「膠を旅する——表現をつなぐ文化の源流」でありました。
膠と聞いて思い浮かぶのは日本画で使われるということ。
ですが、岩絵具を支持体に定着させる接着剤であることからして、
その接着作用は工芸品にも使われるのだそうですね。
今では工芸品として珍重されるものも、昔は日用雑貨であったわけで
誰かれとなく手作りされていたろうことを考えれば、膠もまた日用のものだったのではと思うところです。
そして、そもそも「膠」は「煮皮」であるということなのでありますよ。
壁面や展示台の奥側に並んでいるのが、そのものの膠。手前側は砕いたもので海外の膠と。
ただ洋風にはゼラチンといった方が通りがよいような。そして、精製度合いが高いのが特徴で
(ゼラチンだけに)食品、医薬品に使われれる…とはWikipediaに。
精製度が低いとしても日本の膠は、その分だけ長い歴史の間あまり変わらずに
手仕事で作られ続けてれいるのでしょうか、当然にして長い歴史の日本画制作にはこちらが使われると。
タイトルにある「膠を旅する」とは、日本の膠作りの文化的背景を追って各地を巡ったことの意。
見えてきたのは、古来の狩猟、漁労といった風習から、さらには獲物ではあるもの、
それらがヒトを活かしてくれると考えるところ生ずるであろうアニミズムなどにも触れることになるのですなあ。
そうしたことからも、生き物を決して無駄にすることなく使わせてもらっていることを思うのでしょう、
展示の中に鮭の皮で作られた衣類や履物を見いだしますと、アイヌの文化を思ったりするところです。
それにしても、美術大学というところは絵を描いたり、彫刻を造ったりしているだけでなくして、
こうした研究にも携わっているのですなあ。だこらこそでしょうか、武蔵野美術大学には
芸術文化学科(絵が下手でも学べそう?)という学科もあるわけですし、
キャンパス内には民俗資料室(今回は閉室してましたが)などと言う施設もある。
なかなかに美術大学の裾野の広さを感じたものでありますよ。