6月に入って、あちらこちらで展覧会が再開してますですね。
そうは言っても都心部に出る気にはならないもので、
例によって近いところでお楽しみを見つけるとして武蔵野美術大学美術館へと出向いた次第です。
タマビの美術館と違い、ムサビの方はキャンパス内に美術館があるせいか、
なかなかに不特定多数を迎え入れるわけにも行かず、さしあたって学外者は土日のみ、
予約制での再開となっておりましたよ。
出かけられる日に限りがあるせいか、これまではほとんど人のいない空間での鑑賞が常であったのが、
思いがけずも結構な人出で。といって、混雑しているということもでないのですけれどね。
まあ、それだけ美術館の再開が待たれていたということかと思うところですけれど、
その点で思い出すのは先日(6/11金曜日でしたかね)の夕刊にあった美術評なのでありました。
そこで評論家氏が言っておりましたのは(誤解を招かぬように切り取る難しさがありますが)
緊急事態宣言による美術館の一時閉鎖がさも“美術の危機”といったように語られることに対する疑義、
そんなふうに受け止められたものですから、「この人、何がいいたのやら…」と思いかけたわけです。
ですが、これに続く部分を読んで分かってもくるのですな。
曰く「今日、私たちの美術体験は、美術館や展覧会に寄り掛かり過ぎているのではないか」、
「美術館は確かに大切だ。が、それは唯一無二ではない」と。
先に国立市の町なか野外アートを見て回ったりしたことからしても、
確かに美術館だけが唯一無二の美術体験の場では無いというのは理解できなくもないですし、
美術館ではなくともアート体験は可能と言えばそれはそれでそうではないとは言えない。
ですが、このことは音楽で言うとジョン・ケージの「4分33秒」と似たところがあって、
「何の楽器も鳴ってはいなけれど、ほら、耳を傾けてごらん、豊かな音楽があることに気が付くでしょう」、
そんなふうに言われているような気がしないでもない。
「町なかで見かけるあれこれのものが、ほらアートであることに気付くでしょう」。
これはこれで否定するものではありませんけれど、これって(「4分33秒」の方もそうですが)
アートに対する結構なリテラシーが必要なのではありますまいか。
人によっては、美術館(や演奏会など)を通じていわば宛てがい扶持のアートを提供されなくとも
豊かなアート体験はできるのかもしれませんけれど、リテラシーの持ちようは人それぞれであって、
場合によっては美術館での展覧会を通じてリテラシーを磨く過程にあるという人だっておりましょうし、
展覧会の広告がきっかけとなって美術館を訪ね、アート・リテラシーを紡いでいく人もおりましょう。
評論家氏の言葉どおり、確かにそれだけでいいのかとは、昨年来の事態の結果として
特に音楽体験の場が奪われたように考える向きには考えどころだと思いますし、
美術においてもとは思うところです。ですが、言い切ってしまうかぁ…とは、正直なところでありまして。
そんなことを反芻しながら、ムサビの美術館を逍遥してきたわけですが、
やぱりいろいろな気付きにつながったりするものですなあ。
言ってみれば、これも美術体験、アート体験ということになりましょうけれど、
ある意味そこには展覧会を仕掛けた美術館の側の意図があるせいでもありましょうね。
その意図をそのままに「ああ、面白かった」となっては、評論家氏の言うように
「結局は“美術”なる権威的枠組みから脱しきれない」とされても已む無しであろうものの、
その段階を経て、鑑賞者のリテラシーが向上するのでもあれば、権威一辺倒としてしまうのは
いかがなものなのでありましょうや。
と、すっかりムサビの美術館の話ではなくなってしまってますが、
展示を見てあれこれ思い巡らしたあたりはまた次にということで。