さてと、東京・日野市で新選組ゆかりの場所などを訪ね歩いておりましたが、

最後に立ち寄りましたのは「井上源三郎資料館」、とんがらし地蔵からは目と鼻の先です。

 

 

新選組六番隊組長・井上源三郎、芹沢鴨らとの抗争の後には副長助勤となり、

「慶応四年(1868年)一月、鳥羽伏見の戦いで、淀千両松にて銃弾を受けて戦死」。

その源三郎と八王子千人同心であった兄・松五郎に関する資料を公開するとして、

大河ドラマ「新選組!」放送を気に開館したという。まだまだ新しい資料館ですな。

 

 

今でも井上さんがお住まいらしく、資料館としての開館は(「佐藤彦五郎新選組資料館」と同様に)

毎月第一・第三日曜日の午後のみ。それだけに限られた公開日に賑わって…と思いましたら、

入口前に3人ほどおられた方々は皆、ご家族というか親類縁者というか、身内の方々だったようで。

その方が受付をしておられました。まさに家族経営といった感じです。

 

ところで、蔵造りふうの二階家の一階部分にこぢんまりと資料展示があるのですが、

中に入りますと何やら二階がどたどたと騒々しい。時折、気合の入った掛け声が聞こえてきたりもしておりました。

聞けば二階は現在、天然理心流日野道場となっているそうな。

 

本来、天然理心流の道場を日野に開いたのは佐藤彦五郎であって、

その場所は日野宿本陣に隣接していましたので、本陣脇にはかように碑が立っているのですね。

 

 

碑文には佐藤彦五郎と道場を通じた新選組との関わりなどが記されておりまして、

道場は今、日野宿本陣の駐車場となっているあたりにあったこと、大正15年の大火で焼けるまで

立派な姿を見せていたことなどを読み取ることができました。ちなみにこの碑文は土方歳三直系の

土方家当主が書いたと刻まれておりますよ。

 

そんな佐藤道場の後を受けて、日野の地に天然理心流を伝える道場となっているのが

井上源三郎資料館の2階ということになりましょうね。

井上はもとより、近藤、土方、そして沖田らが実際に稽古をしたのはこの場所ではないものの、

時折聞こえる勇ましい掛け声には、幕末当時、世に出る夢を心に抱いて修練に励んだ若者の姿を

思い浮かべずにはおれない気がしたものです。

 

ところで、展示の方は新選組隊士・井上源三郎の名を冠しておりますけれど、

兄の松五郎が八王子千人同心であったことから、そちら系の資料にも目が向こうというものです。

 

武田家滅亡後、徳川家康に抱えられ、江戸の西の守りとされた八王子千人同心ながら、

泰平の世になって来ますと平時はもっぱら農耕に携わり、勤務といえば日光勤番として

東照宮の守りに当たる(実際のところは火事に備えた消防隊のような役割でしょうか)くらい。

松五郎も日頃から剣の腕を磨いていただけに、浪士組、新選組には加わりたかったことでしょうなあ。

 

しかし、家に受け継がれる千人同心たるところを放っては出かけられない。

名主の職を投げ打つわけにはいかなかった佐藤彦五郎ともども忸怩な思いであったことでしょう。

 

と、展示物の中で「お!」と思いましたものがひとつ。

「誠」の一文字が記されている短冊状の小さな布切れなのですけれど、

大きさからすると肩章でもあろうかと思えるものなのですね。

ついつい受付の方に「これ、本物ですか?」と(考えてみれば失礼な問いですが)訪ねると、

「とある筋からのいただきもので、本物です」ということでありました。

 

だからといって、井上源三郎が付けていたとかいうわけではありませんけれど、

ここまでにあちらこちらの施設を訪ねて誰それの遺品といった品々を見てきたものの、

この肩章ほどこれを翻して京の市中を見まわり、鳥羽伏見ほかで戦った隊士の姿を想像させるものは

ありませなんだ。

 

実際には本当に肩章だったかどうか、使われたのかどうかも分からないということではありますが、

あれこれ見て回った最後になって、思いがけずもぐおっと新選組隊士の姿を脳裏に思い描くことになった。

見て回りの締めとしては打ってつけの場所であったと、そんなふうに思えた井上源三郎資料館なのでありました。