日野市立新選組のふるさと歴史館は段丘崖上の高台にありましたですが、
多摩川に向かって崖下にあたる部分に甲州街道、かつての甲州道中は通っているのですな。
その道沿いに日野宿は広がって、崖下こそが日野の中心地というわけです。
往路のだらだら登りとは違う道をとってみれば、途中でやおら切れ落ちた部分があり、
かなり急な石段がとりつけてありました。
これを下りきって左へしばし。もうひと一息で甲州街道に出るという、その一本手前の道に入ります。
ここは室町後期の永禄十年(1567年)に開削されたという日野用水が通りと並行して流れているのですね。
永禄十年といえば、松永久秀が三好三人衆との争いの中で東大寺大仏殿を焼き払ってしまったという年、
畿内は戦乱のただ中にあったわけですが、遠く離れた東国の田舎である日野では用水開削で
農地拡大に余念が無かったということになりましょうか。
ちなみに、小田原にあって当時このあたりを支配していた北条氏の一族、北条氏照に願い出、
佐藤隼人という人物が用水を設けたようですけれど、どうも日野では佐藤姓の人が名望家であるようす。
次に訪ねたのも、この用水に面して建っている佐藤彦五郎新選組資料館、やはり佐藤さんです。
日野宿近辺には市でやっている歴史館のほかに新選組関係の小さな資料館がここともうひとつありますが、
いずれも毎月第一、第三日曜日にしか開館しないことに気付いたものですから、
日野の新選組めぐりに「いつ行くの?今でしょ」と思い立ったようなわけでして。
ところで、この資料館の主役、佐藤彦五郎ですけれど、
先に訪ねた日野市立新選組のふるさと歴史館の展示からあれこれ書きましたときに
土方歳三の姉の嫁ぎ先、日野宿本陣を任されていた人、天然理心流を修め佐藤道場を開いた云々と。
されど、この人の役割はその他に日野本郷三千石を預かり管理する名主でもあったのですなあ。
複合的に宿場や役場を管理する立場として大きな責任感を抱いておったのでしょう、
日野にもコレラ(当時の呼び方はころり)が流行ったおりには私財を投げうって、
治療のための薬や食料を調達、これを抑え込むことに成功したという話もあるようで。
剣術を習うきっかけも日野宿を大火が襲った際に火事場泥棒が跋扈するのを捨て置けず、
(この時には彦五郎の母親が盗人によって惨殺されてしまったと…)
剣術を治安の糧として、果ては道場をも開くに至ったようなのですなあ。
習い始めは二十歳を過ぎたくらいの若者で、今の新宿区市谷に位置したといわる天然理心流の道場、
試衛館までは相当に長い道のりなわけですけが、これを当然に徒歩でせっせと修業に通えたのも、
若さ故の体力と熱い思いでありましょうね。
それにしても剣術はずぶの素人だったのではと思うところながら、
普通は10年ほどもかかるところを4年半で免許皆伝まで漕ぎつけるとは相当に筋がよかったのでしょうか。
20代後半にして道場主ともなったところへ、土方、近藤、沖田らが集った…とは、先にも触れたお話です。
後に、彼らが浪士組に加わって京に上るとなったとき、彦五郎もまた行きたかったでしょうなあ。
しかし、日野でさまざまに責任を負う立場であるだけにそれらを投げうつこともできず、
後方支援の役割を担う。その頃には近藤勇が4代目として継いでいた道場の試衛館についても、
近藤が後事を託したのは彦五郎であったということで、彦五郎は役割に適う人材だったと偲ばれますですね。
新選組のその後はご存知のとおり、土方が函館まで転戦するも、刀折れ矢尽きて…という具合。
そのとき、土方の遺品を託されたのも、ゆかり深い佐藤家であったということでして、
土方が死を覚悟したのときの手紙、愛用の刀や鉄扇などが資料館には展示されておりましたよ。