先に世界三大美食と言われる(らしい)ペルー料理を食した折に、

「そういえばジャガイモも南米原産であったな」と思い出させられたものですから、

近所の図書館でかような本を手に取ってみたのでありますよ。

題して『海が運んだジャガイモの歴史』と。

 

 

著者の専門はむしろ航海の方であって、そもそもはジャガイモと関わりない分野なわけですが、

ふと思い立って?日本にジャガイモが伝わった際の俗説に疑問を持ったというのが始まりのよう。

その俗説をWikipediaから拾ってみますと、こんな具合です。

「ジャガイモ」という名称については、17世紀初めにオランダ船によってジャワのジャガトラ(ジャカルタの旧名)から伝来、「ジャガタライモ」と呼ばれたものが転じて「ジャガイモ」になった。

この話は聞いたことがありますなあ。ジャガタライモという呼ばれようは戦後しばらくまでは

当たり前に使われていたそうで、ジャガタライモ=ジャガイモという認識は一般にあったわけですし。

 

ですが、大航海時代以来、江戸期あたりまでの航海事情(このあたりは著者の専門なのでしょう)を考えると、

これに疑義を抱いたと。なんとなれば、ジャガイモは南米アンデス高地の原産で、

これを各地に伝播させるのは偏に大航海によるものですけれど、この比較的寒冷地仕様の作物が

長い期間、ともすれば高温多湿など環境変化の多い洋上を航海する船の中では

腐ったりしてだめになってしまうであろうというわけです。

 

つまりはどこかしら中継地(での植え付け)を経て、だんだんと拡散する形が現実的ですので、

その伝播の可能性を、南米から東回りのポルトガル船、西回りのスペイン船、

後にはオランダ船での可能性も含めて、トレースしてみようとしたのですなあ。

 

まず、南米からヨーロッパに運ぶにあたっては大西洋横断が必要ですけれど、

この場合はカナリア諸島あたりに中継地にして、ヨーロッパにジャガイモがもたらされたようす。

当初、そのまま食してはあまり味わいの感じられず、見た目もさえないジャガイモは歓迎されず、

ともすると貧者の食べ物ともされたようですね(ゴッホの絵からもそんなイメージが想像できそうな)。

 

されど、寒冷地向きで荒地でも結構育ってしまうジャガイモはヨーロッパの人々、

特に高緯度で日照条件がよろしくないアルプス以北の人たちにとってなくてはならない食物になるとは、

当のヨーロッパの人々にも思いもよらぬことだったのではなかったですかね。

 

とまれ、ヨーロッパとアジアとの交易はご存知のように1498年、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが

インド航路を拓いたことで盛んになっていくわけですが、これにはえらく時間がかかり、

先の話のようにジャガイモ伝播には向かない。

後にオランダが作ったケープ植民地は中継地たりえたかもですが、

さらにインド洋を越えるのもまた難儀したことでありましょう

 

一方で、西回りのスペイン船といいましたですが、

アンデスからジャガイモを太平洋岸におろすことは可能でしょうから、

東回りが喜望峰を迂回しなければならないように、南米大陸南端のホーン岬を回り込む…という必要はない。

もっともその後に太平洋という極めて大きな海が横たわっているものの、実は航海に向いた海流と風があり、

これを捕まえれば、単に距離で考えるほどには時間がかからないことにもなるそうな。

 

そんなことから、スペイン船がその高速性を活かしてフィリピンにジャガイモを持ち込み、

それが台湾や中国、もしかすると日本にも伝わった可能性は捨て去れないようでありますなあ。

スペイン船が日本と関わりを持ったとすれば、仮にオランダ船がジャガイモをもたらしたことがあったとしても、

スペインによるものの方が早かったのではと思うところです。

 

著者の周到なところは、さらに北方からのルートをも検討していることでしょうか。

もともと寒冷地に向き、荒れ野でも育つとなればロシア、シベリアを陸路で伝播して、

今のジャガイモ大産地である北海道に伝わったという可能性をも忘れず探っているわけで。

 

確かにジャガイモの特性を活かして、ロシアではシベリアでのジャガイモ栽培は奨励したようですが、

北方の狩猟民族には農耕を嫌うところがあってあまり根付かなかったようではあります。

 

ただ、シベリアにジャガイモが伝わっていたことは大黒屋光太夫の語りをまとめた『北槎聞略』の記述からも

分かるようですなあ。その姿かたちを詳しく叙述しているということは、日本では見たことがなかったのかも。

それが10年を経て日本に帰ってみればすでに出回っていたようですけれど。

此物近来和蘭より種を傳へて今處々に多く植す。蠻呼アールドアップルという故、アッフルと称する處もあるなり。

この部分は、光太夫の語りというよりは編者である桂川甫周の補足説明でもありましょうかね。

それでも『北槎聞略』がまとめられたのは寛政六年(1794年)で、「近来和蘭より」とあるところみると、

実はオランダより先にスペインが(広まりはしなかったものの)ジャガイモを持ち込んでいたかもしれないとは

思えるところでありますね。

 

ちなみに「アールドアップル」はまさしくオランダ語でジャガイモのことですが、

これは大地のリンゴと言った意味合い。フランス語の「ポム・ドゥ・テール」と同じ成り立ちでしょうかね。

 

とまあ、あれこれの可能性が考えられるわけですが、ジャガイモがいつ、どのように日本に伝わったのか、

決定的な証拠はどうやらないようで。もちろんジャカルタからオランダがという話の同様に確たるものではない。

それどころから、ジャガタライモとして持ち込まれたのは、実はサツマイモなのではないかとの話までありますよな。

 

なにしろ、ヨーロッパで自体、サツマイモもジャガイモもどちらも「ポテト」で済ませてしまい、

史料を見てもサツマイモのことを言っているのか、ジャガイモのことを言っているのか、分からないようで。

 

にもかかわらず、ペリーが日本を開国させたかったのは、

当時太平洋にまで出張って操業していた米国の捕鯨船にジャガイモ補給が必要だったからてな話も。

長い航海での栄養不良は壊血病の原因にもなったわけですが、ジャガイモ(のビタミン)

はこれの特効薬と考えられていたようですし。たかがジャガイモ、されどジャガイモ…なのですなあ。