とういことで、先には東大和市内のウォーキングにいそしんだわけですけれど、

市内各所でオブジェに遭遇する…とはよくある話であるとしても、

単に有名作家に何か作ってもらっておきましたというのではない、

それぞれのオブジェが何かしら東大和の伝承などを表しているとなると、

ひとまとめに書き記しておきたくもなるところでして。

 

 

まず最初に目にとまりましたのが、この奇妙な形のものでありますよ。パッと見では、

廃物収集の好きなおじさんが自宅の庭にオブジェめいたものを作ってしまったのか…とも。

さりながら、変わっているのはその形だけでなくして、ネーミングもまたしかりなのですなあ。

この作品には「あぼへぼ」と名付けられています。

 

「あぼへぼ」とは、穀物の豊作を祈願してかつて小正月に行われていた行事だそうで、

そのときの飾り物を模したのがこのオブジェであるようで。

漢字で書きますと「粟穂稗穂」、これをなまって読めば「あぼへぼ」ともなりますなあ。

漢字の方を見れば、なるほど豊作祈願につながると思うも、このあたりは米ではなかったのですなあ…。

 

 

お次は子どもの像。幼い弟だかがしがみついているようすが何とも愛らしいですが、

石造であることもあってか、なにやら物寂しくもありますね。タイトルは「つけ木受け取りメモ」?です。

昔、新青梅街道の南側には茶畑があり、お茶摘みの頃には、子供たちは茶摘みのアルバイトをしてお小遣いを稼いだそうです。子供たちはお茶を摘んでは畑の持ち主に持っていき、マッチの代わりに火を付けるときに使う「つけ木」という端に硫黄のぬってある木片に日付とお茶の目方と手間賃を書いた受け取りのメモをもらいました。そのつけ木のメモをお小遣いのもらえる日まで大事にしまっておいたそうです。

東大和市HPには、こんな昔語りで紹介されておりますが、あたりには確かに茶畑が。

たぶんこのあたりのお茶栽培も、狭山丘陵を隔てた北側の、いわゆる「狭山茶」と同じ分類でしょうかね。

 

 

続いては、見た目には抽象的なる作品ですな。タイトルは「俵かつぎ」、

いわれを知れば、姿かたちがなるほどと見えてくるような。

 

麦まきも終わり、畑仕事も一段落した「えびす講」の日(十一月二十日)には、村の青年団の運動会が行われていました。   大正八年、高木村外五か村組合が合併して大和村となったので、それまで各村々でやっていた運動会が合同で行われることになりました。どの競技も観衆をわかせましたが、中でも花形は六十キロの土俵(つちだわら) をかついで百メートルを走る俵かつぎ競争でした。   村一番の力持ちを決めるこの競争には、一段と応援の熱が入りました。

やはり東大和市HPにはこのような紹介がありまして、青年団の運動会とは…。

なんやら情景が浮かんできますし、そう知ってオブジェを見れば「ああ、かついでる、かついでる」と。

さて、お次です。

 

 

妙にかわいらしくもなまめかしい?きつねの姿。「きつねの嫁どり」というもので。

あたかも古くから伝わる昔話でもありそうですが、言われとしてはそれほど昔ではなさそうですなあ。

昔、村々に電灯のつかなかった頃のことです。遠く東京の空にネオンが明るく見えると、とても珍しくて「あれが東京だべ」と空を眺めていたそうです。その頃「きつねの火が通るで見ろや、見ろや」と言われて狭山丘陵の方向を見ると、丘陵の尾根をポーッと赤い火がついたり消えたりし、いくつもいくつも並んで動いていることがあったそうです。まるで嫁どりの時のちょうちん行列が歩いてくるかのように、見えたそうです。そしてふっと消えてしまうのだそうです。

東京にネオンが灯っていたころ、東大和ではまだまだ…という具合。

だからこそ古い時代が残っているのか…かどうかは分かりませんけれど、

住宅街の中に絶滅危惧種、「銭湯」を発見したのでありました。

 

 

といっても、今どきの銭湯はプチ温浴施設的にさまざまな工夫を凝らしているのでしょうけれどね。

とまれ、次に登場したのは「へびのステッキ」であると。

 

第二次世界大戦の頃のことです。現在の玉川上水駅付近は、雑木林が続く少年たちの遊び場で、そこには、縞蛇や青大将、地もぐりがたくさんいたそうです。 当時、地方から日立航空機に動員された青年の中に、へび取り器を使ってへびを捕まえるのが上手な人がいました。 取ったへびの肉は、串に刺して醤油をつけて焼いて食べたそうです。 また、残ったへびの皮は、水にさらして風とおしのよい場所で陰干しし、乾燥させると皮が棒にぴったり張り付いて、立派なステッキができたということです。

さほどにへびに利用価値があるとは、思いもよらず。

「地もぐり」とは、正しくはジムグリという日本固有種のヘビらしいのですが、初めて聞きましたですよ。

日立飛行機というのは、現在の都立東大和南公園あたりにあった日立航空機・立川工場でしょう。

公園内には今でも工場の変電施設が保存されて、空襲による銃撃跡を生々しく残して見せておりますな。

 

…ということで、オブジェを訪ね歩きながら東大和市内をひと巡り。

西武拝島線の東大和市駅前まで戻ってきたですが、駅前にも何かあろうか?と思えば、

今は昔で使い捨てキャラ状態になっている「ゆりーと」を発見。

 

 

もともと都民でも馴染みある人は限られたのではと思うところながら、何年も経つことでかえって

「なにこれ?ゆりーと?」、「ほお、東大和で国体のボウリングがあったのか」てなことを

知るよすがになるのかもしれませんですな。そういう意味ではやはりこれも語り伝える像でありましょうかね。