新潟日報メディアシップというビルの中にある「にいがた文化の記憶館」を訪ねたわけですが、
同じフロアには「新潟市會津八一記念館」もあるものですから、やはりこちらも覗いてしまうところでして。
こちらでは、「會津八一記念館ゆかりの作家31人が選ぶ 私の好きな八一の書」展が開催中でなのありました。
先に「記憶館」の方で相馬御風に関する企画展を見ましたけれど、
御風と八一は早稲田の同期で、どちらも歌人。それぞれに「書」の展示がありましたように
歌人、俳人といった方々は当然のように書も嗜むということでありましょうか。
印象としては、懐から短冊を取り出し、矢立の墨ですらすらと…そんなようすが浮かびますし。
ですが、書を嗜むレベルなのか、はたまた書家であるとも言えるレベルなのかは難しいところ。
本人の意識と同時に周囲の認識ということになりましょうかね。
「自分は書家で(も)ある」という発信があったり、「この人は書家で(も)ある」という拡散があったり。
とまれ、味わい深いと受け止められる會津八一が残した数々の書の中で、
さまざまな工芸作家など、書家も含んでおりますが、そうした芸術創作に関わる人たちが
お気に入りの作品を挙げる、そうした企画なのでありますよ。
もちろん人によって挙げる作品はさまざまながら、なかでも多くの、というより多種多彩な専門分野の人に
挙げられておりましたのが、上のフライヤーに配された「獨往」という二文字でしたなあ。
自らの歌集『南京私唱』の自序に置いた「獨往にして獨唱し、昂々として顧返することなし」という一文から
取り出した言葉であるということで。八一の歌は単に見た目でも漢字を用いず、すべてひらがな書きであることも
独自性のひとつでしょうけれど、独自の生き方に対する信条のほどがこの言葉には籠っている気がしますですね。
好きな「書」を選ぶというときに、書家の方々はじめ、墨跡そのものに着目するということもありましょうけれど、
ついついそこに記された言葉の意味や背景も含めて感じ入るということもありましょう。素人考えでいえば、
そうした意味合いや背景を知ることが選び出す材料になったりもするわけでして、
それでは書そのものを見ていないではないかとも思うところながら、ともあれ、
この「獨往」を選ぶ人が数多いたことには、それだけ多くの人に深い印象を残すものでもあるとは言えましょうか。
一方で、「學規」という一枚を良しとする方々も多かったですなあ。
こちらもまた処世訓のような内容で、仰ることはごもっとも、肝に銘ずべき言葉とは思うものの、
少々説教臭くも感じてしまう嫌いがありそうな。箇条書きの内容はこのようなものです。
一 ふかくこの生を愛すへし
一 かへりみて己を知るへし
一 学芸を以て性を養うへし
一 日々新面目あるへし
まあ、これが掛かれた本来の経緯は、郷里新潟から出てきた受験生をいっとき預かることになった八一が
彼らのために壁に貼ったものということのようですので、甘やかすわけにはいかなかったのは無理からぬことで。
かように意味を求めてしまいがちな「書」とは別に、
(上の「獨往」の書の左側に書かれてあるように)秋艸道人と号した八一が自邸に掲げた
いわば看板にあたるものが「秋艸堂」と書いたものなどは、墨跡そのもので見ることになりましょうか。
これまた素人目に習字的な観点から見れば、とても上手いとは言えそうもない気がしないわけですが、
それでも単に下手と切って捨てられない「うまへたの美学」とでもいうのか(素人目ですのでご容赦を)、
しみじみと感じ入るものがあるようにも思うところです。
この展示を通じて「書」の見方が分かった…とは、もちろん言いませんけれど、
これまだ考えたことのなかった鑑賞の要領といいますか、
その一端を思い巡らすことにはなったものと思ったものでありました。