通勤電車(相変わらず電車通勤してます…)のドア上モニターに流れるニュースで

たまたま見かけましたのが、「Netflixの会員数が2億人を超えた」とかいうものでして。

 

まあ、巣籠りを強いられているのは日本に限った話ではありませんので、

世界中で「家にいて何しよう…」という状況になっている表れなのでしょうなあ。

たぶん「Netflix」ばかりの話でなくして、「Amazon Prime」や「U-Next」、「Hulu」などなど、

やまのようにある動画配信サービスはいずこもそれなりに利用されておりましょうねえ。

 

かつて映画を見るには映画館に行くか、TV放送(もっぱら日本語吹替でしたが)で見るか、

いずれかしか方法はありませんで、取り分け旧作の場合には「ぴあ」や「シティロード」を頼りに

名画座での上映情報を探るか、TVで放送されるときには絶対に見逃さないようにしないと

次の機会は巡ってこないかもしれないという状況だったような。

 

それが、ホームビデオが出来てTV録画が容易になり、これはその後にDVD録画、

はたまたHD録画へと受け継がれ、手軽さが向上しました。

また、ビデオ・ソフト(その後にはDVD、ブルーレイのソフト)が販売されるようになり、

それがレンタルされるようになると、映画を見逃すことに切迫感が無くなってきました。

 

そして、昨今では動画配信サービスによってあれこれの作品がオンデマンドで見られるように。

驚くべき変化であって、これを便利になったと言わずして何と言う、てなようすでありますね。

 

とかくかような振り返りをしますと、確かに便利になった…のでしょうけれど、

「オンデマンドで好きなものが見られる」というのが、どうも落とし穴のような気がしてしまい…。

 

以前にも同じようなことを何度書いていますけれど、

自分が好きなものを見るというのはある一定の偏りから逃れることがないこととイコールであるような。

しかも、取りあえず思い浮かぶタイトルをピンポイントで選択するのでなくして「何を見ようかな」というときに、

これまでの視聴傾向からお薦めのタイトルが表示され、結局そこから選ぶとなれば、これも同様のことかと。

 

かつて映画の旧作が、TV放送を逃すといつ見られるか分からないという時代を過ごした者には

好むと好まざるとは別として(もちろん多少の選別はしましたが)取りあえず見てみたらば

思いもかけず面白い作品だったてなことも、ままあったことを思い出してみますと、

傾向からの逸脱こそ新鮮なお楽しみに出くわす機会だと考えたりするところでして。

 

大袈裟な話にしてしまいますと、昨年Eテレ「100分de名著」で取り上げられたカントの言説を思い出したり。

「見たいものを見る」ということ、これは一見、その人の自由なふるまいにも思えるところながら、

「見たい」という本能的な欲望に囚われているわけで、囚われている以上「自由」ではないことになる。

本能のままにでは他の動物と変わりがない、ヒトにはそうでないありよう、そうでない「自由」があると

カントは考えておりますな。

 

お好みの傾向から外れたところに目を向ける程度のことが、カントの考える「自由」とまで言うつもりはないですが、

知ることの広がりは得られることになりますし、知ることが広がることが何か他の思考に繋がることもありましょう。

 

こんなふうに考えてきますと、確かにオンデマンドは便利なんですが、

世界中で多くの人々が軒並みオンデマンドの動画配信サービスに絡めとられる(?)というのも、

なんだかなあと思ってしまったものなのでありました。