なんということもなし、ウディ・アレン監督作品「教授のおかしな妄想殺人」を見始めて、
ああ、これどっかで見たなあ、たぶん飛行機のオンフライト・エンタメだったか…と、
思ったものの結局最後まで見てしまいましたですが、この妄想教授は哲学の研究者であったのですなあ。
とはいえ、映画の中に哲学話をあれこれ持ち込まれると興の醒める向きもあるということか、
さほどにそちらへの深入りはありませんですが、やはり大学教授が主人公となれば
講義のシーンはあるわけで、そうした場面で話に出ていたのがイマヌエル・カントなのでありました。
カントの考えるところに(きわめて簡単に言ってしまうと)何が何でも「嘘」はいけんよ、というのがありますね。
で、講義の中ではたとえばとして、こんな状況が提示されるという。
あなたの家ではアンネ・フランクを匿っています。ゲシュタポが訪ねてきて、ユダヤ人はいるか?と聞いてきたら、
さてどうしよう…と。
カントの言うように「嘘はいけん」として、「います」と言えば当然にアンネは連れ去られてしまう。
結果、収容所送りになってという先も見通せるわけですね。
一方で「いない」と言うことは、明らかに嘘をつくことであるわけです。
が、こうしたときでもやっぱりカントにすれば「嘘はいけん」ということであるのですなあ。
これはひとつの例ですけれど、「白か、黒か」的に考えてしまうとそれこそ「嘘も方便」ということがあるし…などと
考えたくなる場面がいくつも思い浮かぶだけに、カントの極端さが感じられるところですけれど、
思うに(と、ここから勝手な思いつきですが)状況設定そのもののことを、まずは考えておかないとまずいのではと。
つまり、先の例えでの質問者であるゲシュタポは言わずと知れたナチの機関であるわけですが、
そもそもナチの存在自体が欺瞞に満ちている、そのこと自体に誤りといいますか、すでに嘘が含まれているのですから、
それを前提にした例えというのはすでにしていかがなものか…ということでもあるような気がするのですよね。
とまれ、そんなカントの話が出てきたところで思い出しますのは2020年6月放送分のEテレ「100分de名著」、
取り上げられていたのはカントの「純粋理性批判」でありました。
録りためて7月後半くらいにまとめて見てはいたものの、すぐに8月の猛暑に入ってしまい、
じっくり思い巡らすには頭が働かないままになりましたが、ようやく秋を迎えて…(笑)。
番組を見ていていくつか気にかかる部分はあったのですけれど、
その中でも「自由」ということに関しては考えさせられましたですねえ。
これまた、例え話になりますけれど、
A:定年退職されたそうですね。毎日、どうですか?
B:いやあ、自由きままなもんですよ。やりたいことがやりたいときにできますから。
とまあ、こんな会話があったとして、ここでのBさんは悠々自適になっているわけですが、
カントに言わせますとBさんは「自由」でもなんでもないということになろうかと。
なんとなれば、「やりたいことができる」ということの「やりたい」という部分、
これはその人が持つ欲望に縛られての行動であると見て、欲望から自由でないと考えるのですな。
極端な話、欲望、思いのまま、もそっと大きくいえば本能に従ってやりたいということをやっているのは
動物と同じであって、ヒトはそうではないはずだ、というわけですね。
先に触れた「嘘をついてはいけん」ということとも絡みますが、
ヒトという動物はそれだけにとどまらず、人間という道徳を意識した存在であるといったところが
カントの考え方にはあるのでしょう。とても逆説的な感じがしますですね。
ごくごく普通に「自由」を考えた場合には、上の例えのBさんのような受け止め方が自然でしょうけれど、
実は人間として、素朴な欲望の支配・束縛から逃れること(これこそが自由)を持っているのだというのですから。
こうなりますと哲学という以上に倫理学的なところなのかもしれませんけれど、
人間とは実にストイックな考え方を持てる点で、何とも特殊な生き物だなという気がしてきます。
そうでありながらカントがこのようなことを説くのは、そういうことを考えることはできても、
実際の行動においてはなかなかそうはいかないということの証左なのかも。
だからといって性悪説に立つものではありませんけれど、
つくづくヒトは賢くて愚かな生き物なのであるなあと思ったりするのでありますよ。
もちろん我がこととして日々の行いを顧みつつ…。