とある映画を見ておりまして、年末に放送していたEテレ「日本の話芸」を思い出したのですね。
演目は柳家権太楼の「佃祭」という一席なのでありました。
祭り好きの次郎兵衛さんは家の者に「しまい舟では帰るから」と言いおいて、
佃島・住吉神社のお祭り見物に出かけて行きましたが、なかなか帰ってこないので家人が心配しだすと、
そこへ「佃からのしまい舟が沈んで誰も助からなかった」てな知らせが…。
大騒ぎになって、近所の人も駆けつけてきた次郎兵衛さんの家では
早速に葬式の支度が準備万端…と、そこへ当の次郎兵衛さん、
「こりゃあ、どうした騒ぎだ」と帰ってきたのですなあ。
事情を聞けば、3年前、吾妻橋を通りかかったときに身投げ寸前でを助けた娘に呼び止められて
しまい舟に乗り遅れて…といったことが明かされて、「ああ、情けは人の為ならず」てなところに
落ち着いていくという話なのですけれど、これを思い出した映画というのが
「レヴェナント:蘇えりし者」だったのですなあ。
どこが似ているって、どちらも死んだと思った者が返ってきたというお話ですし、
「情けは人の為ならず」という部分もまたいささかは。
この映画の主人公ヒュー・グラスはどうやら実在した人物のようで、
やはりグリズリーに襲われて半死半生となり、仲間には死んだ者として打ち捨てられるも、
生還を果たしたと(事実なのかは分かりませんが)アメリカでは知られた言い伝えでもあるそうな。
なにしろ厳冬期に雪の中に置き去りにされてどう考えても助かるはずもなく、
映画ではレオナルド・ディカプリオが「そんなバカな?!」という強靭な体力を見せるわけですが、
それにしても先住民ポーニー族のひとりと出会わなければ、生還には至らなかったでありましょう。
時代は西部開拓期ですから、白人とアメリカ先住民の間の関係は極めて悪く、
そもそもグラスがクマに襲われるのも、アリカラ族から逃れる逃避行の最中なのですね。
アリカラ族にしてみれば、自分の縄張りでごっそり毛皮を取っていってしまう白人に対して
業を煮やしていた結果の攻撃なのでしょうけれど、要するに敵対関係にあったわけです。
されど、先住民の中には何々族というグループ分けがたくさんありまして、
アリカラ族とポーニー族ともまたあまり仲がよくないようすなのですが、
グラスにはポーニー族の女性を妻にしていて、言葉も自由に操れる。
ポーニー族に対して、グラスは全く悪意はないわけです。
この辺のことがあって、途中で出逢ったがポーニー族のひとりに助けられる、
とまあ、そんなことを思うにつけ、ヒトは本来、誰とでも敵対するようなことがなければ
お互いを思いやる気持ちも自然に、普通に出てくるはずなのだよなあ…と思ったものなのでありますよ。
これでやおら落語の「佃祭」を思い出すのも飛躍に過ぎるかもしれませんけれどね。
ところで、この映画を見ていて考えた別の点になりますけれど、ヒトのサバイバル能力といいますか、
おそらくは生き物として本能的なところでもあろうかと思いますが、それがどんどん失われてきたのだろうなあ。
ポーニー族の人が吹雪に巻かれる中、あたりにあった立木の枝をたくさん薙ぎ取って、
テントのように組み、グラスを凍死から守るところがあるのですけれど、
これを見て「デルス・ウザーラ」の知恵を思い出したものでありますよ。
かつて自然の中で暮らす人たちには、その場で得られるものだけでもって生き抜いていく術があったものの、
必要なモノを金銭で購入するという生活形態になって、不要な知恵、術として忘れられていったのだろうと。
もちろん、一概にそれがいけないというわけではありませんで、昔のようにどこに放り出されてようとも
生きていけるサバイバル能力をやたら称揚するわけでもないのですけれど、だからといって、
便利な世の中である「今」が、常にそのままでなくては生きていけない…となってしまうのはどうなんでしょう。
人間は社会的な生き物になっていますので、社会のさまざまな仕組みとともに暮らしているわけですが、
いざその社会の仕組みが揺るがされると、右往左往するしかないのだろうかな…とも思ったり。
何ごとも「個」として対応するのは無駄が多いから、できるだけまとめて役割を分化させた方がメリットが多いとは
これまでの平常時には言えたことで、何の疑いを持たずに来たのかもしれませんけれど、
将来的に事が片付くとして、これまでどおりに復すことを目指すのがいいのかどうか、
そんなことも考えたものなのでありました。