さて、武蔵野美術大学美術館で次に眺めて回りましたのは所蔵品展、「ふたしかなデザイン」とは果たして…?
ものを選ぶ理由は人それぞれですが、本展でご紹介するプロダクトは、私たちが普段なにか道具を買うときの決め手にはなり得ないような視点、これまでにない意外な発想によってデザインされているといえます。
展示解説にあるとおり、本来的にははっきりと「実用品」と思われる製品でありながら、
実用目線で見ると「?」とか「!」とかいうものが並んでいるのですよね。
天井まで吹き抜けの高さある空間はそうしたものたちの無機質感を際立たせるようでもありまして、
プロダクトデザインもまた現代アートなのだなと思うところです。
奥に見える出入口の向こう側はムサビ・コレクションの椅子をずらり並べてあるギャラリーになっておりますが、
そうした椅子フェチならではの感覚で?こちらの所蔵品展も中央にあるのはやはり椅子でありましたよ。
一人掛けソファのようなどっしり感を想起させながら、その実、メッシュの構造ですかすかに見える。
本来感じさせるはずの安定感を脱ぎ捨ててしまったところが椅子として「ふたしか」なものであろうと、
そのように説明されているわけでありまして。
さりながら、「ふたしかさ」という点ではこちらの時計の方がより受け止めやすいのかもですね。
決して画像がぼけているわけではないのですから。
時計というものは時刻を正確に伝えることが目的としてあるのですから、
時計の針はかっちりと何時何分何秒を指していると分かるシャープさが必要なはず。
それに対して、この作品を始め、展示された時計は「時間を曖昧にする時計」と評されておるのですなあ。
単にふたしかなデザインというのでなくして、用途としてもふたしかな時間を知らせるものとなっている。
そんなにいつもいつもきっちりした時間を意識して生活しなくてもいいんでないの…といったメッセージがあるのだとすれば、
それはすでに「実用品」というより、作品が鑑賞者に何らかの影響を与えずにはおかない「芸術作品」でもあろうかと。
実用品なのか、芸術作品なのか、実のところその区分けさえもがふたしかのままにされているともいえましょうかね。
「たゆたう入れもの」として紹介されている中のひとつ、こちらの器はいかがでしょうか。
2つ、あるいは3つの器が入れ子状に重ねてある…のではないのでして、内側にある器と見える方には底が無い、
つまりこの器が器として(中に何かを入れられるという)機能を果たせるのは一番外側部分でしかないという。
ヴェネツィアン・グラスで作られているという、この作品。
透明な淡い色合いは見る者を和ませるものであって、置物として意味合いを持ちつつ、
実際には実用的な器として作られながらも、実用性の点では決して使い勝手がよくなさそうという微妙さ。
まさに見る者、使う者の心をたゆたわせる、ふたしかさがあろうかと思うところです。
繰り返しにはなりますが、プロダクトデザインとアートにはそれぞれおよそ別個のものと受け止められるものもあり、
一方で双方の要素が微妙に重なり合っているものもある。このことは、普段さまざまな「モノ」に接しながら、
意識することなく過ごしてしまっておりましょうけれど、およそ身の回りにも発見できることなのでありましょう。
今さらながらにそんな気付きを促す品々の展示であったなと思ったものでありますよ。