ことわざに曰く「禍福は糾える縄の如し」と。

世の中、いいことばかりではないし、また悪いことばかりではありませんな。

 

良いこと続きで「絶好調!」と思っていても、そんな時こそ落とし穴に気を付けてという戒めでもあり、

良くないことも同様にそればかりがつづくわけでないという励ましでもあり、

ともあれ、全くもってその通りと思うところではなかろうかと。

 

ですが、これをその通りに受け止められるのは平常心であるときでしょうなあ。

負のスパイラルの方に嵌まり込んでしまうと、容易にはそこから這い出せないことにもなって、

とても糾える縄のように福が巡ってくることもあるとは全く考えられなくなるでしょうから…と、

そんなことを考えてしまいましたですよ、映画「函館珈琲」を見ているうちに。

 

北海道の函館にある古い西洋風アパートの翡翠館。桧山英二(黄川田将也)は、翡翠館に来るはずだった先輩の家具職人・藪下に代わり、翡翠館にある蔵で古本屋を開こうとやって来る。装飾ガラス職人の堀池一子(片岡礼子)ら住人は桧山がいれるコーヒーの香りに誘われ、つかの間の触れ合いを楽しんでいた。そんな彼らは、それぞれに秘密を持ち、孤独を抱えており……。

シネマトゥデイによるあらすじはこんな具合ですけれど、ちとネタバレ的に主人公を紹介しますと、

古本屋を開こうとして函館にやってくる背景として、主人公・桧山は実は何かしら新人賞を受賞した小説家であると。

 

賞を取れば次の仕事も舞い込むわけですが、これがどうにも書けないようす。ではあっても、周囲の目は

間違いなく彼を新人賞受賞作家としてみるわけで、これが相当のプレッシャーになったのでしょうなあ。

自分が作家であるとは知らない町への逃避、これが函館に来た理由でありましょう。

 

古本屋をやるというのも決して本気ではなく、単にせどりをしているだけ。

新しい商売に前向きさなどはみじんも無く、だめだめのときの発想には結局だめだめの案しか浮かばないことを

よおく示してくれておりますね。

 

ところで、以前読んだ『終着駅 トルストイの死の謎』(映画化された際のタイトルは「終着駅 トルストイ最後の旅」)で

トルストイこんなことを語らせる場面がありましたなあ。

「なあきみ、いまはそこらじゅう作家だらけだ。誰もが作家になりたがる」 部屋を歩きまわりながら彼は言った。 「たとえば、今朝の郵便を見てごらん。新進作家から三通も四通も来ている。みな出版してもらいたがっている。しかし文学においても、人生と同じように、一種の純潔を守らなければならないんだ。いやしくも作家たるものは、依然に達成されたことのないものを目指さなければいけない。『日は照り、草は輝いていた』ぐらい、誰だって書けるよ」

たぶんですが負のスパイラルに陥ったと思しき桧山には、

自分は「作家になりたがる」だけのものであったのだというような思いが渦巻いていたのでもありましょう。

 

ですが、人と人との関わりは(といって、何でもかんでもこれを肯定的には考えてはいませんが)

やはり相互に作用するものがありますね。映画ではもちろん、いい方向にですけれど。

 

おそらくはアパートの住民たちがそれぞれに秘密を持ち、孤独を抱えているからこその距離感、

これが暑苦しくも冷淡でもないほどほどのところで、お互いへの作用を生むことになったと思うところです。

 

人は一人では生きていけない。さまざまな意味において、これは是でありましょう。

ただ、だからといって「人と関わらなくてはだめだ」といった考え方は、このアパートの住人たち、

すなわち誰かの人物造形は見ている誰かしらとどこかでシンクロするような点では広く人々とも言えるかも、

そんな普通の人びとにとって社会との関わりのありようを考えさせてくれるものであったように思うところです。

 

果たして作品本来の意図は奈辺にありやとも思うところですが、

個人的にはそんなふうな思いで見たものなのでありますよ。