湯河原といいましても西村京太郎記念館はまだまだ山の端ですので、海に近いのですな。

記念館の近くで昼食をと思ったとき見つけたのが、魚屋の和食料理の店という触れ込みのこちら。

通りの向かいにある魚屋さんの食堂部門ということになりましょうかね。

 

 

当然にして海鮮系メニューが並び、目移りしてしまうところではありますが、

入ったときにしか食せないという限定メニューと言われますと、ついつい飛びついてしまうわけでして、

それがこちらの「生しらす丼」なのでありました。

 

 

とまあ、かような昼食で腹ごしらえの後、バスに乗り込んで奥湯河原へ。

それにしても、湯河原は箱根にも隣接するエリアだけに箱根登山バスと伊豆箱根バスの2社が運行しておりまして、

湯河原駅から奥湯河原(その先、山越えで箱根に至る)までの路線を、この2社のバスが交互に走っているのですな。

 

かつて獅子文六の小説『箱根山』で読んだ五島・東急と堤・西武の箱根戦争の名残を

この2社体制から偲んだりするわけですけれど、お互い仲良く?同じ路線を交互に運行しているとは

共存を模索した結果でもありましょうかね。

 

小説の中では、箱根の山道を舞台に2社のバスが競い合い、

速さをアピールして抜きつ抜かれつデッドヒートを繰り広げたというすごい時代もあったようですので。

 

同じことが湯河原の山道で繰り返されたとしたら、時に対面でのすれ違いに困るような道だったりもするだけに

危うい状況があったろうなと思うところですが、今ではそのような気配は微塵もなく

バスは登るほどに道の両端が迫るようになる山間へと分け入っていくのでありましたよ。

 

でもって、たどりついた終点が奥湯河原のバス停留所。

とても静かな山の中で、奥座敷中の奥座敷との印象を与えるこの場所に

太平洋戦争の戦前・戦中・戦後にわたって外交に尽力した重光葵の記念館があるということで、

訪ねてみたのでありました。

 

 

重光葵という名前がもっとも知られているのは、

1945年9月、米戦艦ミズーリで行われた降伏文書調印に臨んだ外務大臣としてでしょうか。

ここだけを見ると戦後処理に登場したとだけ見えてもしまいますが、

1911年に外務省入省以来、各国大使を歴任する一方、東条英機、小磯国昭両首相のもとで外相に就任していたり。

戦後、戦犯に名前が挙がるのはこれが理由でとも思ったおりましたら、どうやら違うようで。

 

もちろん、軍人宰相による内閣で外相だったから即ち戦争加担者であって戦犯だとは必ずしも言い切れず、

この辺りの微妙さは広田弘毅(東京裁判で絞首刑)、東郷茂徳(同じく禁固20年、獄中で死去)のことを考えても

「う~むぅ」と思うところでありまして。

 

重光に対しては禁固7年の有罪判決があったわけですが、これには裏でソビエトの強硬姿勢があったという。

重光が駐ソ大使として赴任した2年後の1938年、張鼓峰事件として知られる満州とソ連の国境紛争が発生、

ソ連外相リトヴィノフとの間で停戦交渉に取り組み、これを実現させるわけですが、

この時のことを根に持ったソ連側が重光を戦犯として処断することを主張していたのであるとか。

戦後処理における大国間のパワーバランスの犠牲といいますか、まあ、重光だけはないと思うところですが。

 

その後、駐ソ大使から駐英大使に転じた重光は暗雲垂れ込める欧州情勢を冷静に見て

欧州の戦争に関わるべきではない、つまりは独伊と結ぶべきではないと

再三にわたり本国に報告していたことなどを考えれば、その姿勢の一端を知ることができる気がするところです。

 

この時期までの外相は生え抜き外交官から出ているケースが多いものと思いますが、

少なくとも外交のプロであるとは自他ともに認める人材が登用されてもいたでしょうか。

今のように、当選回数の多寡を斟酌することで議員が大臣になるのとは違っていたのでしょう。

 

ただ、だからといって今でも外務官僚から外相を出すといった形が良いのだとは言い切れない気もしますが、

これは政治のありようの変化でもありましょうかね。昔が良かったということではありませんけれど、

政治の形がいい方向に進んだとも思われないところではあるわけで。

 

幸いというべきか、5年弱の服役で釈放された重光はやがて公職追放も解かれ、

鳩山内閣で外相に就任、今度はソ連との国交回復に携わることになるとは

まさしく激動の人生であったことでありましょう。

 

記念館となっている湯河原の静かな山間の邸は、

そんな重光に束の間の憩いをもたらす場所だったのではと思うところです。

1957年、この別荘に滞在中、重光は69歳の生涯を閉じたということでありますよ。

 

記念館に立ち寄った側としても、雨のそぼ降る奥湯河原で

もの思いにふけることになるひとときなのでありました。