ちょいとまた両親のところへご機嫌伺いで都心方向で出たものですから、
最近はそういうことでもないと立ち寄ることのない都心部の美術館に立ち寄ってみたのですね。
東京・原宿にある太田記念美術館で、開催中の展覧会は「江戸の土木」というもの。
個人的には至ってそそられるタイトルなのでありましたよ。
徳川家康が関東に入って以来、それまでさほどの町でもなかった江戸で大がかりな工事が連続、
『家康、江戸を建てる』なんつう本が出てくる由縁でもありますね。
そんな中で「橋・水路・ダム・大建築から再開発エリアまで」と、さまざまな土木工事に関連する浮世絵を
ずらり並べたのが本展でして、もちろん家康の時代のみならず、明治の近代化のようすも含まれてますが。
で、個人的興味というばかりでなく、展示の最初に置かれ、点数も一番多いのが橋を描いたものですので、
まずこれを見ていくわけですが、まあ、橋はそもそもランドマークになりやすいですものね。
江戸の橋といいますれば、何よりも隅田川に架かる橋ですなあ。
今では(鉄道橋なども含めると)30以上も架かっているとWiki にありますけれど、
江戸期には5つの橋だけであったということですなあ。
取り分け江戸に幕府が開かれた当初は戦国の世の名残もあって、
戦略上、簡単に川を渡って攻めてこられる橋を架けることは勝負の分かれ目にもなったでしょうから、
慎重に対処したものでありましょう。ただ、隅田川に最初の橋が架かったのは文禄三年(1594年)、
「千住大橋」が初めての橋だということでありますよ。
と、そのような説明とともに展示されるのは当然にして橋を描いた絵、
例えば歌川広重の「名所江戸百景」から「千住の大はし」だったりするわけですが、
目を奪われたのは二代目・歌川国明の「千住大橋吾妻橋洪水落橋乃図」という一枚ですなあ。
千住大橋は何度か補修されながら明治に至るまで江戸のままの佇まいを残す頑健な?橋だったとか。
それが明治18年(1885年)の台風による大水で流出しまうのだそうですけれど、
上流から流されてきた大きな筏が激突して、さしもの千住大橋は大破、
その残骸が下流の吾妻橋をも撃破して、二つの橋の成れの果てはさらに厩橋に襲い掛からんとして…。
このような緊迫した状況を描いているのが国明作品なのですな。
さながら報道写真のようですが、瓦版の延長として実際にそのような役目を果たす一枚でしょうけれど、
なかなかの緊迫感が見て取れる、災害報道としては見事なものでありましたよ。
さて、隅田川第二の橋として架けられましたのは「両国橋」だということで。
創建は寛文元年(1661年)、これは?マーク付きではっきりと確かめられていないようですが、
架橋当初はまだ、隅田川の向こうは下総国だったところから、武蔵と下総のふたつの国を結ぶ両国橋と、
これは庶民が言い慣わしたことからその呼び名になったのでもあるような。
江戸市中から見て両国橋の向こう、東側にあたる本所、深川といったあたりは
当時はお江戸の蚊帳の外であったにもせよ、千住大橋の川向うとは違って市街地からも近かったですから、
江戸の人口が増加していく中ではさぞ集住が進んだ地域なのでもあろうかと。
そんな中、明暦三年(1657年)、「明暦の大火」として知られる大火事が発生、
川を背に避難が適わなかった人たちにたくさんの犠牲者が出ることに。
先にも触れましたように江戸市中への出入りを容易にする橋を造ることは控えられてきたわけながら、
幕府も黙過できずに両国橋を架橋したということなのですな。
その際、防災の観点から橋の東西のたもとには「両国広小路」と呼ばれる火除地が設けられらたそうな。
空間があるからということか、平時にはあれこれの出店が並んで賑わいを見せたということが
この広重の「東都名所 両国橋夕涼全図」(部分)でも見てとれますなあ。
手前が見えている「西両国」は「江戸随一の繁華街」でもあったそうですけれど、
「西両国」があるということは橋の向こうは「東両国」だったのでしょうか。
今では東側に橋を渡ったさきにJR総武線の両国駅があり、駅前には両国国技館がありと、
もっぱらそちらばかりが両国という地名で意識しておりますが、橋の両方ともに「両国」だったようで。
で、隅田川第三番目の橋は…となるところながら、
千住大橋と両国橋だけですでに長くなってしまいましたので、このお話はあとに続くということで。