栃木県那珂川町の馬頭広重美術館を訪ねてその裏手に抜けてみますと、

傍らにある建物に、地味にさりげなく「那珂川町馬頭郷土資料館」との看板が目にとまったのですね。

 

 

ここまで来たついでだからと立ち寄ることにしましたけれど、

まあ、小さな町の郷土資料館、うわものがわりと大きな建物で少々期待が高まりはしたものの、

やはりそれなりの展示規模でありましたよ。入口には無造作に?昔の消防車が置かれてあったりして、

すでにそれなり感を醸し出しているという…。

 

 

基本的には郷土の歴史紹介と郷里出身の芸術家の作品展示だったりするわけですが、

細かいところに目を向けてまわる旅の中では、これもまた一興ではありまして、

那珂川町の馬頭地区、合併前の馬頭町は古く奈良時代には武茂(むも)という地名で知られていたのだと。

 

なんでも当地では金が産出され、奈良の大仏造りにも使われたというのですな。

大仏造りに関わった金としては奥州藤原氏、平泉の金が知られるところですけれど、

何気なくこんなところ(?)からも出ていたのですなあ。

 

とまれ、そうした有難さからでしょうか、「平安時代末頃に那須氏により宇都宮明神に寄進され、

神領として宇都宮氏の支配」するところとなったということです。

 

宇都宮の名は今では栃木県の県庁所在地を思い浮かべるばかりながら、

藤原氏の一族が二荒山神社(上の説明の宇都宮明神ですな)の神職を務めつつ、

宇都宮氏を名乗る武家となるわけですが、武茂の地はその宇都宮氏の支配下となったわけですね。

 

武茂では、鎌倉時代になって宇都宮氏の一族が地名ゆかりの武茂氏を興し、城も築きますが、

下野の那須氏と常陸の佐竹氏の間にあって佐竹に付くことを選び、後々、関ヶ原後の仕置きで

佐竹が秋田に領地替えとなるや、武茂氏は健気にもこれに従って秋田へ赴いたそうな。

江戸期には水戸藩管轄となったようでありますよ。

 

黄門様として知られる水戸徳川家二代目藩主の徳川光圀は「藩政の基礎を固める」として

領内の村々を巡察したそうですけれど、武茂にも9回ほど訪れているとのこと。

こうした見て回りが後の水戸黄門漫遊記にもつながっていくのですかね。

 

そして、先に触れました「美しい村」加盟の要件でもある文化的背景につながるものとして、

小砂焼(こいさごやき)というやきものの伝統がありますけれど、

これも水戸藩の徳川斉昭が「良質な陶土を小砂で発見したのがはじまり」ということで。

 

今では八溝山地を隔てて茨城県と栃木県に区分けられておりますけれど、

かつては茨城側との関わりが深かった土地なのですなあ…と、そんなことを知った上で、

いよいよ栃木県から茨城県へと移動することに。もうほんの目と鼻の先という感じでありますよ。