なかがわ水遊園で自然観察ののちには、地域の古代史をたどるべく

那珂川町なす風土記の丘資料館に立ち寄ったのでありました。

実のところこちらにもさほど大きな期待を寄せてはおりませんでしたけれど、

思ったよりも資料館然とした施設でしたなあ(とんだ失礼をばいたしました)。

 

「風土記の丘」というくらいですので、古代史が中心、

常設の展示としては古墳時代から律令時代くらいまでのところが押さえてあるようですが、

展示スペースは小さいながらも、かような企画展も開催中でありましたよ。

 

 

「なすの縄文遺跡」というものでして、那珂川町とお隣の大田原市の遺跡から出土した品々

展示してあるのですな。つまりはこの地域、縄文の時代にも(それなりに)多くの人が住んでいたと。

 

 

もそっと北の方には那須火山の裾野に広がる那須野が原がありますけれど、

広大な土地ながらも水事情に乏しく、明治になって那須疏水が開削されるまでは原野のままであったとか。

今の那須があるのは明治の元勲肝いりの開拓がせっせと行われたからでもあるようで、

大山巌が手掛けた大山農場なんつうのもあったということです。

 

ですが、それに比べて那珂川の水利が得られるところには、

それこそ縄文の昔から人が住まったということになりましょうか、数々の出土品が証拠であるわけで。

 

そんな具合に縄文の頃から人が住まっていた土地なればこそでしょうかね、

その後には古墳もたくさん築かれるようになると。

 

 

で、ご存知のように古墳の形にはいろいろあるわけですが、円墳、方墳、そして前方後円墳は多々見受けるものの、

栃木県、というより下野国で那珂川流域にことさら目立つのが前方後方墳なのであるというのですなあ。

 

 

上の図では右側が那珂川流域を表しておりまして、取り分け早い年代(時間軸は上へ行くほど古い)に

たくさん前方後方墳が築かれているのが分かります。実際に前方後方墳を見たことがあったかなと思うだけに、

資料館の近くでも現物が見られたはずながらお天気の悪さでスルーしたのが何とも残念なことでありましたよ。

 

とまあ、古くから人が住み、古墳時代の初期から比較的大きな前方後方墳の造られたこの地域、

やはり要地だったのでありましょうねえ。律令時代になりますと、下野国那須郡の郡衙(郡役所)が置かれ、

かように立派な建物が建てられていたと想像されているのですから。

 

 

今でこそ那珂川町は東北本線の線路からも遠く、国道4号(いわゆる今の奥州街道)からも離れて、

多分に田舎感のあるところとなっていますけれど、郡衙が置かれたということは、地域の徴税を司り、

これを大和朝廷に移送するための道も整備されていたことでしょう。

現代から想像もつかないほどに繁華な場所であったのかもしれません。

 

資料館のあたりは一面の田畑となっていますけれど、そこにかつてあったであろうものを想像してみるのも

歴史に触れる楽しみであろうなあと、思うのでありましたですよ。