先ごろインドと英国の話に及んだところで、たまたまにもせよインド映画を見たもので、そのお話を。
「スタンリーのお弁当箱」という子供たちが主役の映画でありますよ。
インドにあっては結構レベルの高い?学校が舞台のようですね。
キリスト教系で皆日常的に英語を話し、授業も英語で行われているわけで。
また、お弁当を持参することが前提になっているあたりも、一定の生活レベルにあってこそなのではと。
そんな学校に通うスタンリーはクラスの人気者なのですが、
家庭の事情によって毎日お弁当を持っていけなくなってしまいます。
昼どきになると「家に帰って食べるから…」と席を離れるスタンリー。
ところが、昼休みじゅう校舎の周りで時間つぶしをしているところをクラスメートが見かけるのですよね。
数人の子供たちが自分たちのお弁当を一緒にして、それをスタンリーも交えて昼飯にするということになりますが、
ここに出てくるのが相当に飛んでもない教師。自らも持参するはずの弁当を持ってこずに、
生徒の弁当を横取りすることに執念を燃やしているような人物です。
これに対して、子供たちは子供たちなりの健気な対抗手段をとるのでして…と、
そういう物語の方はご覧いただくことにしまして、かほどにとんでもない教師が登場するのに
「なぜに文部科学省特別選定作品?!」と思ったりしたものですけれど、
それはあまりに子供たちが「いい子」だからでありましょうか。
近頃になってむかぁしのことを思いだしたりすることがありますけれど、
子供といのは加減を知らない分、なんとも情け容赦が無いところがあろうかと。
今ならすべて「いじめ」になってしまうとするならば、自らも「いじめ」に加担していたのであろうなあと
振り返って思ったりするわけです。
ところが、ここに登場する子供たち、スタンリーのクラスメイトは
子供らしいささいないさかいこそあれ、みんないいやつなのですなあ。
仲間内には持ってくるお弁当からしても明らかに一等抜きんでたお金持ちの家らしき子もいますが、
その子も金持ちを笠に着ていばるようなこともなく、スタンリーを気遣う仲間と同レベル。
なかなかこうはいかないような気がしますよね。
ともすると、わざとらしい作り事めいてしまうところながら、
もしかするとこのあたりこそ文科省のお気に入りポイントなのかもしれませんですね。
さりながらそういう点ではいささか肩透かしと思えることには…といって、
実は映画を見終えてフライヤーによおく目を通したときに気付いて「そうだったのか…」と思ったことが。
フライヤーにはこんなことが書かれてあったのですなあ。
脚本を作らず、代わりに学校で本物の教科書を与えてワークショップを行いながら1年半かけて撮影。子供たちは最後まで映画撮影だと知らなかったという。半ドキュメンタリー・半ドラマの主砲から紡ぎ出された子供たちの自然な眼差しは年間1200本以上も公開される映画大国インドでも新鮮な驚きを持って迎えられた。。
え?!これって、シナリオ無しなの!と。
日常から離れた子供たちというのは、もしかするとこういう姿を見せるのでありましょうか。
学校という場も家庭環境とのつながりから、誰それは金持ち、誰それは貧乏、
はたまた誰それは片親、誰それの親はのんだくれ…てなことを親を通じて知っていたりして、
そんな知識?を背負って集まっていたりするのですよね。
それが子供の世界という社会の縮図的なるところで、先にも触れたような情け容赦のない関係で
日々を送ることになり、ともすると子供の本性かとも思ってしまうわけですが、
そういった大人の社会的しがらみから解き放てば、きれいごとっぽい言い方にはなるものの、
かなりみんな、いわゆるいい子だったりするのかもしれません。
あたかもバックグラウンドを一切知らずに公園で出くわした子供たちが何の屈託もなく
一緒に遊びまわるようなイメージでもありましょうね。
とまれ、子供という存在に関しては簡単にああだこうだと言い切れるものではありませんけれど、
現実世界であの子はどう、この子はこうと言う以前に、どうこう思わせるような(余計な)ことを
子供たちに植え付けてしまっているとしたら、それこそが間違いの元なのではないかなと思ったりもしたわけです。
「子は親の鏡」とはよく言ったもので、自分の子供時代の親子関係を後からやり直すことはできませんが、
次世代へとバトンをつなぐ立場になったなら、改めて考えておきたいことではあろうかと。
そんな(もしかしたら映画の話としてはお門違いかもですが)思ったものなのでありました。