先日、映画「はじまりへの旅」を見たところで、

いわゆる常識と異なる立場にあってもそれでいいのだと思わせる強い信念(?)の背景に

宗教があったりすることもあろうか…てなことを書きましたけれど、「やっぱりなあ…」と。

ドキュメンタリー映画の「ラジオ・コバニ」を見て思ったものなのでありますよ。

 

 

内容としてはこのような。フライヤーの記載からの引用です。

トルコとの国境に近いシリア北部のクルド人街コバニは、2014年9月から過激派組織「イスラム国」(IS)の占領下となる。クルド人民防衛隊(YPG)による激しい迎撃と連合軍の空爆支援により、2015年1月に解放された。人々はコバニに戻って来たが、数カ月にわたる戦闘で街の大半が瓦礫と化してしまった。そんな中、20歳の大学生ディロバンは、友人とラジオ局を立ち上げ、ラジオ番組「おはよう、コバニ」の放送をはじめる。生き残った人々や、戦士、詩人などの声を届ける彼女の番組は、街を再建して未来を築こうとする人々に希望と連帯感をもたらす。

カメラは戦闘終結前に入っていたのでしょうか、緊迫した銃撃シーンなども出て来ますけれど、

作り物でない底知れぬ恐怖を呼び覚まします。銃撃そのものもさりながら、人間の本質に触れる気がするわけでして。

 

しかしながら、ISによる占領がいつ終わるか知れない段階でカメラが入っていたとなると、

解放後にラジオ放送が始まるとは知りえないときにすでに現地入りしていたことになり、

「ラジオ・コバニ」というドキュメンタリー映画になるとはその時には意識されていなかったのかも。

コバニの現状を記録に残し、世に、後世に伝えるというジャーナリスト魂だったのかもしれません。

 

ところで、IS側の兵士であった者がYPGに捉えられ、尋問されるシーンが出てくるのですけれど、

町を破壊し、人々を虐殺する…なぜこんなことをやったのか、どうしてこんなことができたのかと問われたIS兵士、

冒頭に触れたこととの関わりからすれば、宗教的な盲信、狂信が言葉に出てくるようにも想像したところ、

そうではなかった…。貧しさ故、食うためにISの傭兵になったのであると。

 

もちろん、傭兵といっても元から戦闘訓練を受けていた者であるはずもなく、ただただそこらの人だったのでしょう。

「貧すれば鈍する」といった言葉を持ち出しては安直に過ぎるとは思うものの、

直面する貧しさから抜け出すための行為であると考えることで、

破壊、虐殺といったIS兵士としてとった行動を自身の中で正当化できてしまうとは…。

いったい何がどう間違っているのか、本当のところを突き詰めて考えなくてはなりませんですね。

 

ラジオ放送を始めた大学生のディロバンは、こんなふうにマイクを通じて語りかけます。

「未来のわが子へ。戦争に勝者などいません。どちらも敗者です」と。

過酷な戦争の間近にいたからこそのひと言だと思う一方で、

「でも…」とか「だから…」とかを抜きにすればこの言葉に異を唱える人はいないのではないですかね。

 

もちろん現実的には兵器産業や武器商人がいるではないかとはなりますが、

こうした側の人たちは自己正当化の「でも」とか「だから」とかを先に言ってしまっているのでしょうから、

それを抜きにして、突き詰めて考えていけばです(冷静にそれができるかどうかは別ですが)。

 

とまれ、人間の本質には残虐なことを許容できてしまうようなことがあったとして、

その後の経験というか、学習効果というか、そうしたものを通じて、

それを抑制するすべも持ち合わせているものと思いたいところです。

 

ヒトには酷いことをされたら酷いことをしかえしてしまうところもあるわけですが、

(そこには自己正当化をしやすい理由があるわけで)

コバニの人々にももしかしたらそうした思いを抱いた人もいるかもしれません。

 

されど、そうした黒々としたわだかまりを少しでも吹き払う清新な風になったのが、

ラジオ・コバニを通じた語りかけだったのではなかろうかと思ったりしたものでありますよ。