例によって例のごとく周回遅れのTV番組のお話になりますけれど、

前回のEテレ「にっぽんの芸能」は舞踊の「戻橋」を取り上げておりましたですね。

 

毎週のように(録画して)見ている「にっぽんの芸能」ながら、取り扱われる各種の古典芸能の、

いずれにも同様の興味を持っているわけではない、未だ興味が追い付いていないのでして、

中でも「能」は今だに厳しいなと思い、舞踊もまた。

 

ではありますが、番組HPに「舞踊を楽しむため舞踊の「鬼」ポイントを紹介」とあったとおりで、

言われてみればかほどに分かりやすい仕草をしていたのであったか、と思い知らされて見始めたこの舞踊、

美女に化けた鬼と、豪傑・渡辺綱が夜の京都を舞台に繰り広げる戦いを描く」という物語仕立てで、

舞踊ビギナーも付いていきやすい展開ではありました。

が、実のところ、見ながらにして思いは舞踊と別方面に巡らされることになってしまい…。

 

そもそも「鬼」なるものは、ヒトが抱く見えないものに対する恐怖、例えば疫病や飢饉などへの恐れ、

その正体として姿かたちを与えたものが「鬼」(のひとつの解釈)でもあるようですよね。

 

この舞踊は、そのような「鬼」が夜な夜な京の町に出没するということで出歩く人が減ったという状況を

背景にしておりますが、これって今現在続く外出自粛にほかならないような。

 

もっとも、渡辺綱の時代、即ち平安期の朝廷なりから「自粛要請」があったかどうかは定かではありませんが、

豪傑・渡辺綱は「鬼」=得体のしれないものなど恐るるに足らずと思ったか、夜中に出歩き、

一条戻橋のたもとで美女と遭遇、果たしてこれが鬼であったわけですなあ。

 

と、現今のようすと状況的に似ているということ、それはそれとして、思い巡らしはどんどん舞踊から離れます。

仮にですけれど、平安時代では遠すぎるので江戸時代とでもしてみますか、ともかく昔の時代に

疫病なりなんなり、得体のしれないものが鬼という、ある種、分かりやすい姿で受け止められて、

人々は出歩くの止め、経済活動が非常に停滞するという事態に立ち至ったと、あくまで仮に考えてみると。

 

そうなりますと、長屋住まいの庶民(多くはぼてふりや職人仕事で生計を立てていたであろう人々)の生活は

たちどころに困窮することになりますね。商売あがったり、仕事は無いということになりましょうから。

 

ここでの生活困窮は、ひとえに日々の食事に事欠く、おまんまの食い上げ状態であろうと思うわけでして、

これに対しては幕府がきっと、お蔵米の放出をして炊き出しに供したことでありましょう。

 

これで米の飯には(多少なりとも)ありつけるとして、おかずのたぐい(とても贅沢を言ってはいられませんが)は

それぞれに自宅に漬け置きの梅干しやら漬物やら、その他あらゆる細かいものが持ち寄られたのではと、

これは全くの想像ですけれど、そういう相互扶助はあったんではないですかねえ。

 

一方、何とか食つなぐことができたとして、長い時間にわたった場合、

長屋の店賃が滞るということにも必ずやなってくることでしょうなあ。落語に出てくる長屋住まいの連中は、

どれほど店賃を払っていないかを自慢し合ったりする手合いが多いですが、それは誇張としても

「大家といえば親も同然、店子と言えば子も同然」といった言われようがある中では、

店賃滞納には今よりの緩やかな対応があったのではなかろうかと。

 

まして状況は鬼が跳梁跋扈している(疫病が猛威をふるっている)となれば、

あらゆる経済活動が止まっているわけですから、店賃を払いたくても払えないのは誰の目にも自明のこと。

そんなときに契約を盾にやいのやいのと取り立てでもしようものなら、

なんと欲の皮の突っ張ったやつと総すかんを食らったことでしょう。

場合によっては幕府のお咎めなんつうことにもなったかもしれません。

 

疫病に対する直接的な手立てを講じるほどの科学・医学の無い時代には

そんなお互いさまの我慢をしながらじっと「鬼」が姿をくらますのを待ったことでありましょうね。

 

そんなこんなを思うにつけ、「昔だったなら…」てなことを考えてしまいそうになりますけれど、

決定的に今と違うのは(科学・医学も違いはしますが)社会のありよう(経済のありようも同様に)が

複雑になっているということでしょうか。

 

あまりに単純な言い方にはなりますが、相互扶助でもってじいっと我慢してやり過ごすという対処では

いかんともしがたいくらいに、ものごとの仕組みが複雑に絡み合っているわけで。

 

ただ考えてみたいのは、この違いとなって表れている複雑さというのが、

社会が昔よりも良い方向に向かった結果なのであるかということでもありましょうか。

そりゃあ、なにもかも江戸時代よりも今の方が良くなっているだろうよと言ってしまうのは簡単ですけれど、

その「良い」と思えた方向に向かう際に、何か置き忘れ、切り捨ててきてしまったものがあるのかもしれません。

 

現在の状況は「それどころじゃあない」ということでもありましょうけれど、

いささかなりともそんなようなことに思いを巡らしてもいいのではなかろうか。

不謹慎な言い方にもなりましょうけれど、今はそうした何かしらを考えるための停滞期間なのではなろうか、

舞踊「戻橋」を眺めつつ、そんなことをぼんやりと思い浮かべていたのでありました。