ニューヨークの摩天楼。誰も見上げることのない、高層ビルのてっぺん近い暗がりに佇むひとりの人影。

誰にも勝る特異な能力を持ちながら、心中には誰とも共有することのできない孤独を抱えているのでありますなあ。

敢えて固有名詞を引き合いに出すまでもなくスーパーヒーローは、そんな孤高さを抱えているのではないですかねえ。

 

だからこそでしょうか、それぞれの能力はオンリーワンであるにしても、

普通の人々には分からない(分かっていない)面では共鳴できるヒーローたちがチームを組んで登場する、

そんなワンチームものの映画がずいぶんと作られておりますなあ。

 

チームを織りなす一人一人は、その気になればその一人を主人公に映画が作れるであろう中で、

わざわざチームプレイで見せようとするのは、「だって、客を呼べるではないか」ということも本音であるにせよ、

時代の求めるもの(あるいは求めてられているのだろうと仕掛けられたもの)でもあるかなあと思うのでありますよ。

 

「アベンジャーズ」もそうですし、まあ「X-メン」なんかも。

そして、このほど見た「ジャスティスリーグ」もまたでありますなあ。

 

 

ちとこの間のテレパスの話の繰り返しになってしまいますが、何かしら秀でたというのか、

「そんなこと、あんなことができたらいいな」(なんだかドラえもんの歌みたいですが)と特異な能力を持てたらとは

無いものねだりをしがちな「ヒト」という生き物にありそうなことですけれど、

そんな想像できる能力がそも「ヒト」に無いのは、おそらくあったら困る側面があるということではなかろうかと。

 

よさそう面だけに着目しているときには、その裏側にあるものまで想像しかねてしまうものの、

実はその負の側面といいますか、それがあまりに大きいのでもとから備わらないようになっているような、

そんな気もしているわけでして。

 

ですから、さまざまな「あったらいいな」を映画などの世界で描き出しているわけですが、

最初は一人の特異な能力を取り上げて、「すごいでしょう!」という作りで、皆それに満足していた。

ところが、その特異な能力を発揮する反面の、場合によってはダークサイドとうらおもてだという部分にこそ

着目した作品が出てくるのですなあ。

 

あまりそういうのが続くと「そりゃ、ヒーローにもいろいろ事情はあろうけれど…」と思いつつも、

ダークサイドばかりではいささかうんざりしてくることもあろうかと。

(個人的にはかなり早く見切りをつけて、ヒーローものを映画を見なくなっていました…)

 

それと入れ替わるように(とは適切な理解ではないかもしれませんけれど)、

ヒーローだって弱い面もある、だからそれを補いあって最強のチームで臨むのだといった感じの

いわばワンチームもの(これ、勝手な名づけです)が登場してきたわけですけれど、

上にある「ジャスティスリーグ」のフライヤーにあるように「オンリーワンが集まれば」なのですよね。

「最強の男」、「最強の女」がやってきた!的なキャッチではないわけです。

 

ある意味ではヒーローが矮小化してきたとも言えるかもですが、

結局のところ、ヒトはひとりでは生きていないのだという現実感が否応なく増してきた時代になってきて、

こうした映画にも反映してきているかもしれないなあと思ったりするのでありますよ。

 

取り分け2020年の地球を覆っている特異な状況を即座に解決できるスーパーヒーローはいないわけで、

そのかわりに何かできるのは地球という広いけれど閉じた空間の中にいる普通の人々ひとりひとりの

ワンチーム意識なのかもしれませんですね。

 

もっとも「何かできるのは」と言いましたが、差し当たって何をするのか、しないのかは思案のしどころではありますが。

おっと、すっかり「ジャスティスリーグ」の話はどこへやら?になってしまいました(笑)。