さて、美術館に行った「つもり」になって過去の展覧会を振り返る自宅イベント?の第2回目はこちら。
「丸井コレクション 20世紀版画の軌跡展-ピカソ、マティス、ウォーホル、ホックニー…-」という長いタイトルで、
2001年に安田火災東郷青児美術館(当時)を会場に開かれた展覧会でありまして。
前回取り上げたスーパーリアリズム展@伊勢丹美術館が1985年でしたので、
ずいぶんと時を隔てた展覧会を持ってきた形になりますけれど、
手に入れた図録をきちんと本棚に、年代順に並べ揃えてあるてなことはないものですから、
とにかくずいぶん昔に見た展覧会だったなと思ったものを引っ張り出したら、これだったということで…。
ですので、これを選び出した意図のようなものは全く無いわけですが、版画を通してではあるにせよ、
19世紀末から20世紀のアートの潮流といったもをざくっと通観するのは非常に興味深いものでして、
そのおしまいあたりでフォトリアリズムに触れられる点、つながり無しとは言えないように思ったところです。
振り返ってみるに、2001年当時もまだまだ美術館を訪ね歩くことに多くの時間を費やしてはいなかった頃で、
その後あれこれの作品を見る中で画家の一点ものたる油彩画に(妙に)ありがたみを感じてしまい、
反面で版画をいささか軽く見るようになっていったきらいがありますが、この頃はずっと素朴に
きれいな色彩デザインでも見るつもりで出かけたのではなかったかと(わがことながら)推測するのですね。
上のフライヤーに使われている作品は今でこそ「ああ、ミロだね」と想像できるわけですが、
当時は「なんだか分からんけれど、色遣いがきれいで、面白い形だな」と見ていたような。
先には美術を見てなんだかんだと語る言葉を持ったことに自らの変化を感じたところながら、
かつてのような素朴な興味で作品に向き合うことを忘れてしまったかも…などとも思ったものでありますよ。
ところで、改めて図録をじっくりと見て、読んでみましたところ、
20世紀美術を振り返る(20世紀ももはや振り返る対象か…)点でこれまで理屈的には素通りしてきたところを
分かりやすく教えてくれることがたくさん書かれてありましたですよ。
美術史を日本史に引き比べてみるのはいかがなものかとは思うものの、
世紀末から20世紀初頭のアートシーンには実にいろいろな登場人物があって、
それぞれにいろいろなことをやっているという点で、日本史の幕末維新の人物を追いかけるような、
あたかもそんなような楽しみがあるようにも思えるところです。
さりながら、その後をたどることは(日本史の授業でかつては現代史がなおざりにされたこともあり)
なんとなく知っている人物、知っている事件などがありはするものの、それをきちんと流れの中で捉えることを
してこなかったように思うところがまた、現代アートを見ることを同じような気がしたものでして。
つまりは、ふと気のとまったあたりをつまみ食いしてきたようなふうに思うわけです。
そんなところへもってきて本展の図録解説では「なるほどねえ」と、今さらながらに気付かされたといいますか。
ちとそのあたりをおすそ分け的に(といって、詳しい方には全くもって今さらでもありましょうけれど)引いてみようかと。
まずは20世紀アートの始まりを告げるという点で、このあたりから。
キュビスムもフォーヴィスムも形や色は対象の単なる再現のための手段ではなかった。彼らはそれらが持つ純粋な力や可能性を感じ取り、形は形として、色は色として自立した絵画を目指した。こうして現実を本物らしく描くことから解放された絵画は、自由な展開を遂げることが可能となったのである。
いやあ、まさにこうして20世紀絵画が開かれた、という気がしてきますですねえ。
絵画は(何がどのように描かれようとも)描かれたものそのものが作品である、との宣言でもあるかのようです。
しかし、写実との決別であるかのようでいて、形や色を自由に使うとはいえ、何らかの対象を描き出すという点では
まだまだ写実から離れたわけではなかったと言われれば、これもなるほどでありますね。
ですが、そんなところへ現れてくるのが抽象芸術へとつながる実験的な試みであったということでして。
これらの芸術に共通して言えることは、現実のイメージに束縛されない、絵画としての純粋な形態と色彩の美しさであった。写実性を払拭し、再現の手段としてではなく、絵画そのものとしての価値を問う抽象芸術は、その後も20世紀の主要な芸術運動のひとつとして進展を続けた。
ちょいと前、指揮者エーリヒ・クライバーのことを書いた折に
第二次大戦ではその戦前から戦中にかけてヨーロッパの音楽家がたくさんアメリカに渡ったことに触れましたけれど、
こうした動きは美術の世界でも同様で、ヨーロッパでの芸術潮流が一気にアメリカに刺激を与えることになったのですな。
抽象芸術においても「抽象表現主義」といったものが出てくるわけです。ジャクソン・ポロックやデ・クーニングですね。
無意識の世界を目指した抽象表現主義は、本能的なものや直感的なものを過度に重視するようになった。そのため、その姿勢はあまりにも内向的、自己中心的なものとなってしまった。抽象表現主義のこうした重苦しい態度に嫌気がさした若手の芸術家たちは、その芸術至上主義的な態度に反発して、崇高とされる芸術と卑俗な日常生活を結びつけようとした。
こうした方向からポップアートの誕生となっていくわけですけれど、
当初は単純に分かりやすいものとしか捉えきれなかったポップアートも、それなりの考え方があったのですなあ。
すでにあるものを写し取っているだけではないかと思えてしまう(とこれが、何故かそれに惹かれたりするわけですが)
ロイ・リキテンスタインなども、その作品作りにはかなりこだわりがあったようすなのですね。
「輪郭や線を自分の好みに合わせて描き直し、せりふに関しても、独自のものを入れたり、
あるいは省略したりといた加工作業を施した」となってきますと、
そこにある物体を自らの筆致で写し取る静物画との違いはいずこにありや。
静物画を芸術といい、リキテンスタインをマンガ(しかも写し取っただけ)と言い切ることはできなくなりましょう。
まあ、作者の方としても見る側に確実に戸惑いが生ずることは自覚的でしょうし、
そうした戸惑いを生じさせる=芸術って何?という疑問を抱かせる、
現代に近づくにつれて見る側に揺らぎを与えることこそが芸術のありようであって、
いわゆるパッと見がどうということでは語りようのないところが出てくるようになるわけですね。
ひと括りにするのもなんですが、アンディ・ウオーホルやジャスパー・ジョーンズ、
さらには以前触れたフォトリアリズムの作家たちにもそういう側面はあるのではなかろうかと思うところです。
いやはや20世紀を通観するといって、そこには相当な多様性があるものですから
すっかり長くなってしまいましたですが、もそっと丁寧に見ていけばさらにどんどん長くなるばかりですので、
この辺にしておきますが、こんなふうにざっと振り返るだけでも面白さは満載の20世紀アート。
繰り返し同じことをこぼしますが、ぜひまた美術館でじっくりと向き合いたい思いが沸き起こってきましたですよ。
