ドイツ・ライプツィヒの郊外に聳えたつ諸国民戦争記念碑

その足元にはさほど大きくはありませんが、1813年に起こったライプツィヒの戦いに関する資料館がありまして、

「FORUM1813」と呼ばれるこの施設、やっぱり覗いてみるわけでありますよ。

 

中に入ってみればもちろんライプツィヒの戦いに関する展示ということになるわけですが、

「なんだかナポレオンの方をフィーチャーしている?」と思しきコーナーもありまして、

ナポレオンはこの戦いで打ち破らなければならない敵ではありながら、

関わる人物の中で最高に有名人だということなのでありましょうかね。

 

 

とまれ、ライプツィヒの戦いのようすを思い描けるようにと大きなジオラマが置かれてありました。

よくよく見ればなんとも細かく作られていて、こういうジオラマ作りを趣味にしている人がいて、

作りながらその世界に入り込んでしまうのも、なんとなくわかるような気が(笑)。

 

 

 

乱戦、混戦であったことはすぐさま伝わりますけれど、全体的な布陣といった点はひと目で分かりかねますので、

ちとこちらを。ミュージアムショップで手に入れたポストカード、連合国軍とフランス軍の配置が描かれています。

 

 

真ん中のライプツィヒ市街を扇の要にして弧を描くように赤組と青組が陣取っておりまして、

市街を背負う形の赤組、これを外側から取り囲む青組という構図ですけれど、果たしてどちらがどちら?

 

当初は外側から押し寄せるのがナポレオン率いるフランス軍、町を守ろうとしているかのように見えるのが連合国軍とまあ、

このように受け止めたところがながら、実際は逆。赤組がフランス、青組が連合国なのでありましたよ。

 

考えてみれば、ライプツィヒの戦い以前のドイツ諸邦は相変わらずフランス勢力下にあったわけですから、

モスクワから退却したナポレオン軍が市内に入るのは難しい話ではなかったということになりましょうか。

そういえばですが、資料館でなくて記念碑の中にもこんな展示物がありましたなあ。

 

 

展示解説によれば「ナポレオンの机」ということでして、ライプツィヒの戦いの最中、

ナポレオンは市内のホテルに入り、「プリンス・スイート」と呼ばれる部屋で夜を過ごしたそうな。

その部屋にあったこのデスクでナポレオンは、作戦の最終指令を書いた…のではないかとも想像されるとか。

 

もっともトルストイの「戦争と平和」(話はモスクワ侵攻のことですけれど)を読んだときには、

もっぱら部下の参謀に作戦を作らせ、ナポレオンはその天才的ひらめき(思い付き?)で手を加える、

そんなようすではなかったかと。成功すれば自分の天才故、失敗すれば参謀の作戦に穴があったてなことですかね。

 

ところで、ナポレオンが泊まったという「プリンス・スイート」ですが、その名の起こりは

1801年、ロシア皇帝アレクサンドル1世(当時は皇太子だったのでしょうか)のために用意された部屋であったと。

デスクも特注ということですので、むしろ「アレクサンドル1世の机」と呼ばれておかしくない気がするところながら、

歴史上の知名度は圧倒的にナポレオンなのでしょう、ここでもその名をナポレオンに譲ってしまっているようで。

 

 

資料館の方にありましたこちらの絵も、ナポレオンを真ん中にして

ロシア皇帝アレクサンドル1世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世を従えているかのよう。

ま、これは(ライプツィヒの戦いまでの経緯を紹介するなかでの)ティルジット条約記念の絵のようですから、

ナポレオンが上り調子のときですので、その描かれようは致し方なしですけれど。

 

とまれ、そのように飛ぶ鳥を落とす勢いがあったナポレオンもライプツィヒの戦いに敗れ、

フランスの勢力圏はライン川の向こうへと押し戻されることになったのですな。

余勢を駆った連合国軍は翌1814年にパリに入り、ナポレオンは…というあたりは、

先日触れたことですので繰り返すまでもありますまい。

 

資料館から一歩外へでますと、件の記念碑の大きさを改めて目の当たりにすることに。

よっぽど「ナポレオン、ざまあみろ!」感が強かったのだろうなあと思ったものでありますよ。