よこすか海軍カレーを食したお店は横須賀港の目の前、ヴェルニー公園の中にありました。
公園の名のもとはフランソワ・レオンス・ヴェルニー、フランス人技師の名前でありまして、
先に訪ねた野島埼灯台のところで、ちとその名が出ましたように灯台造りにもたくさん関わった人ですな。
三浦半島の観音埼灯台もヴェルニー作でしたっけ。
ついつい明治政府のお雇い外国人かと思ってしまうところながら、実は幕末の1865年に来日している。
近代化で巻き返しを図ろうとする幕府の要請であったとは。
幕末の時期、英国は薩摩を支援していたわけで、対抗して幕府はフランスと手を結び、
フランス人技師の派遣となったのですなあ。
そんなヴェルニーが建設に携わった横須賀製鉄所が向こう岸に望めるところから
公園にその名を遺した…ということですが、製鉄所の方はその名の割には「日本初の近代的造船所」ということで、
造船のための製鉄ということだったようでもありますよ。
展示解説には「世界遺産の富岡製糸場のモデルとなった」とありましたが、
そういえば富岡製糸場もまたフランス人技師の助け、ことのほか多しでありましたなあ。
とまあ、かように歴史と関わるヴェルニー公園ですので、園内にはさまざまなモニュメントが見てとれます。
例えばですが、まずはこちら。当のヴェルニー本人、そしてもうひとりは小栗上野介です。
小栗上野介忠順は幕府に製鉄所建設を建言して自ら関わった、ヴェルニーとともに横須賀製鉄所の立役者であるそうな。
幕末の旗本の中では期待のエース的存在でしたですが、動乱のどさくさで悲運の最期を遂げたあたり、
薩長史観からすればあまり触れたくない人物のひとりではなかろうかと思うところです。
お次は正岡子規の句碑でありまして、「横須賀や只帆檣の冬木立」と刻まれています。
解説によりますれば、明治21年(1888年)の8月、「正岡子規は夏期休暇を利用して、友人とともに汽船で浦賀に着き、
横須賀・鎌倉に遊んだ」とありますけれど、当時の横須賀は近代化を目の当たりにできる場所として注目を集め、
「全国から訪れるヒトが絶えませんでした」ということですので、子規もまたその一人であったとなりましょうか。
ところで、子規も詠んでおりますように見える景色というは「帆檣」、帆柱だったわけでして、
子規が訪ねた頃には製鉄所(造船所)はすでに海軍の横須賀鎮守府直轄となっている歴史を考えても、
この公園内に海軍ゆかりの石碑が数々あるのも頷けてしまうところではありますね。
上は「軍艦長門の碑」、下は「軍艦山城の碑」でして、それそれ横須賀との関わりは
山城の方は横須賀海軍工廠(元の横須賀製鉄所)で建造されたからであるとして、
長門の方は呉海軍工廠で造られたものの、横須賀鎮守府配備の連合艦隊旗艦だったからでしょうか。
こちらの「国威顕彰碑」などは艦橋を模したデザインが「う~む」と思わせますし(ちなみに建立年月日等、委細不明とか)、
ひときわ大きな場所を占める「海軍の碑」などは平成になって造られた…てなふうなことまで知りますと、
かつての戦争が妙に懐かしい思いで振り返るものになってしまったように思えてこなくもない。
ちと歴史の教訓は違うところにあるような気がするのですが…。
かつての横須賀製鉄所は今現在、在日米軍横須賀基地になっていることも含めて歴史をどう捉えるか、
考える余地は大いにあるように思うのですけれどね。