秩父市吉田の龍勢会館 からさらに長瀞に近付いて、訪ねたのは宝登山神社でありました。
せっかく母親が御朱印帳を持参していたからには秩父神社 ひとつではなんですから、

もうひとつくらい御朱印を頂戴せねばと。


宝登山神社に到着

さりながら、この大鳥居の奥に見える本殿はずいぶんと高いところにあり、
当然にしてそれに至るには長い石段を登り詰めねばならないとは。


足元不如意な両親としては「これは…」となってしまったわけでして、
そうであれば止むを得ないと、森の石松ではありませんが代参に乗り出したような次第でして。


宝登山神社本殿

つうことでたどり着いた本殿がこちらでありますが、

ご由緒のほどは(秩父神社よりはやや遅いですが)日本武尊東征の折、

秩父に入ってこの山の頂上へと向かっているとき(ちなみに歩きで登ると50分ほどとか)
突如山火事が起こって火に取り巻かれてしまった。


すると、そこへ多くの巨犬が現れて瞬時に火を消り、

日本武尊を無事に山頂に案内したそうな。そこで山頂に神籬を設けた…というのが

寶登山神社奥宮(山の上なので今回は行ってませんが)の始まり。


山の名前もこの時に「火止山(ほどさん)」とされ、後に宝登山となったということでして、
このことから「火災盗難除け諸難除けの守護神」とされているのだとか。


と、先に訪ねた秩父神社 では社殿の彫刻に目を止めましたので

ここでもふと眺めやってみますと、中国の孝行話として有名な「二十四孝」から

八話を選んで彫られているようですな。


「二十四孝」より王祥のお話 「二十四孝」より唐夫人のお話

左は王祥のお話。寒いさなかに鮮魚が食べたいという継母の願いをかなえるために

裸で氷海に飛び込んだ王祥の手元には勝手に魚が飛び込んで来たと…。


右は唐夫人のお話。歯がなくなり食事に不自由するようになった夫の老母のため

唐夫人はお乳を与え、おかげで老母は長生きしたそうな…。


「二十四孝」より郭巨のお話 「二十四孝」より舜のお話


左は郭巨のお話。老母と子供とをかかえ貧しい生活の中、子供を土に埋めてまで

母に孝養を尽くそうと考えた郭巨が穴を掘っていると黄金の釜が出てきて…。


右は舜のお話。両親、兄弟に虐げられながらもそれぞれに孝悌を尽くしている姿に

天も感じ入って、農作業の手伝いにゾウや鳥を遣わしたとか。この舜は後に王様に…。


「二十四孝」より子路のお話 「二十四孝」より孟宗のお話

左は子路のお話。貧しい暮らしを切り詰めて米を買い、遠路はるばる両親のもとへ

届けたという子路は孔門十哲のひとりですなあ。


右は孟宗のお話。死病の床にふせっていた母親が厳冬ながらタケノコを食べたいという

その願いを聞き、必死でタケノコを探す孟宗に天も感じ入り、タケノコを生やしてくれたと…。

孟宗竹の名の由来ですね。


「二十四孝」より剡子のお話 「二十四孝」より楊香のお話

左は剡子のお話。目を患っている両親のため、眼病に効能ありとされる鹿の乳を得るべく

鹿の皮をかぶって群れに近づく剡子、猟師に射られそうになるも作戦は成功し…。

このお話の主人公が「剡子」(ぜんし・えんし)なのか「郯子」(たんし)なのか、

インターネット世界を見るだけではごっちゃになっていますなあ、余談ですが。


右は楊香のお話。父親と山仕事をしているところに虎が現れ、今にも父親に襲いかかろうとした

そのとき楊香が身代わりとばかり虎の前に躍り出ると、虎も孝心に感じ入って無事に…。


こうした孝行話を福沢諭吉は不可能な話や馬鹿げた話と一笑に付したようでありますが、
昔話をそのまま真正面から受け止めたところで意味はありませんですね。
要はそういう心持ちというか心構えというか、その辺をくみ取ることに意味があるわけで。


まあ、一万円札の先生に対してかように偉そうなことが言えるのも、

まさにこの宝登山神社で母親に代わって御朱印を頂戴してくるという

ささやかな孝を尽くしたという気分からでありましょうね(笑)。