「足るを知る」てな言葉を常々の自戒も込めて使ったりしますけれど、
ほどほどのところで「足りてる」のではないかと知るというからには、
例えば「もの」が潤沢にあることを前提としているのであるな…と、
今さらながらに思ったのでありますよ。


そもそも「足りていない」という状況にあっては、「足るを知る」などという言葉自体
贅沢の極みのようにも思えてくるところです。


以前「世界の果ての通学路」 というドキュメンタリー映画を見ましたが、
アフリカで、南米で、アジアの山奥でどれほど住まいと学校が離れていようとも
せっせと学校に通う子供たちの姿が映し出されていました。


彼らは通学路の長い長い(そして時には危険でもある)道のりを苦ともしていない。
実際問題大変なので、そう言い切ることはできませんけれど、その大変さを克服するだけの
通学にかける前向きさがあるのですよね。


自分の将来像を思い描いて、それに近付く手段として学校で学ぶということが
位置付けられていわけです。


主人公ウィリアムもそういう前向きに溢れた少年だったのだろうなあと
このほど映画「風をつかまえた少年」を見て思ったものでありました。


映画「風をつかまえた少年」

ウィリアムの住むのはアフリカはマラウィの小さな村。
村じゅうほとんどの者が農業で生業をたてるも、天水農業であるため、
旱魃や洪水など自然の影響が直接的に収穫に影響し、空腹、飢餓を感じるのが
日常的にもなってしまったりしているという。


そんな生活にあって、ウィリアムは中等学校を学費未納で退学になってしまう。
廃物の機械いじりが好きな好奇心に溢れたウィリアムは学校で学ぶという機会が
失われたことに大きなショックを受けるわけです。
(日本の子供たちだったらどうだろう…とは言わずもがな)


授業には出られないけれど、何とか図書室だけでも使わせてもらえるよう話をつけ、
その図書室で出会った本によってウィリアムの人生が大きく変わることになるのですね。


手にとったのは風力発電の本。
風で電気が起こせるのなら、井戸から水を汲み上げて農業に使えるではないか。
ウィリアムの考えが絵空事としか思えない大人たちには全く相手にされないのですな。


当然に村に電気は通っておらず、電気を使うものといえば乾電池式のラジオか、
自転車のダイナモによる照明くらいなもので、その自転車でさえ村には
数えるほどしかないという。


端折ってしまえば、結局のところウィリアムは風力発電機を作り、
涸れきった畑に井戸から水を流すことに成功するのですから、
文字通りに「風をつかまえた少年」になるわけですね。


ですが、実際の風をつかまえて発電するということのみならず、
ウィリアムは人生を切り拓く風をつかまえたのだというべきでありましょうか。


実話に基づくこの映画の主人公は現実世界で注目された結果、
アメリカのダートマス大学を卒業してNGO活動をやっている。


自ら選択して農民になったわけでななく、他に選択肢が無いというマラウィの農民たちの中で
若い人たちが夢を実現できる環境づくりをしたいと考えているのですなあ。


「足るを知る」なんつうレベルの話でなく、そもそも何もかもが足りない中で
何かやりようがあるだろうかと考えること。
ヒトに与えらえた脳の生かし方はそうしたところにあるのかもしれませんですね。