路面にはケサワが敷き詰められ、道の右手側に焼酎瓶が並ぶ「でんでん坂」に面して、
常滑で廻船問屋を営んでいた瀧田家が構えた居宅、そこを訪ねてみたという次第です。



常滑はもはや言わずと知れたやきものの町ですけれど、
作り出した製品を運ぶための手段がどうしたって必要でしょうし、
そも海に近い場所であったとなれば船主が存在してもおかしくはありませんですね。
解説板にはこのように書かれてありました。

常滑は焼き物の町であると同時に、江戸時代から明治前期にかけては廻船の町でもありました。常滑湊に近接する常滑・北条・多屋には多くの廻船主が住んでいました。常滑の船は、伊勢湾周辺の地域(尾張・伊勢・美濃・三河)と上方、江戸方面を結んで、当時の人々の生活を支えていました。

と、かような中で常滑を代表する廻船問屋を営んでいたのが瀧田家ということで、
屋敷の前の坂道を「でんでん坂」と呼びならわすのも、瀧田家に由来があるそうな。

瀧田家では坂の焼酎瓶が並んでいる側の高台から使用人に湊を見下ろさせて、
船の出入りを主人に報告させていたそうなんですが、

状況を伝えることからこの高台を「伝の山」、通称でんでん山と呼び、

その下を通る坂道を「でんでん坂」と呼ぶようになったのだとか。


とまれ、そんな瀧田家の屋敷に少々お邪魔をしてみることに。
傾斜地を利用していますので、広大といったふうではありませんですが、
かつての繁盛ぶりを窺える設えではあるように思えましたですよ。



18世紀初頭から続く旧家という瀧田家は、
四艘の船持ちとなった幕末維新の時代が最盛期であったようですけれど、
その時代の物流業は不穏な時期ならでは特需のようなものでもあったろうかと。
いわゆる平時にあっては、二艘の船持ちとしてだいたい年平均で5回の航海をしていたそうな。
もっぱら伊勢湾と江戸とを負う父子、年に一度くらい上方に向かうこともあったということです。



航路としては常滑湊を出たのち、
知多半島の対岸にあたる伊勢白子の大黒屋光太夫 の船と同様に

鳥羽に入って風の具合などを見定め、一気に下田へ向かったというのですね。



今でこそ伊豆半島の突先で交通不便と見られる下田ではありますが、
この当時、大量輸送の手段はもっぱら船に頼られていた時代、
西国と江戸を結ぶルートの要衝として下田は栄えていたのでしょう。


ですから、米国との条約に基づいてハリスの在留が認められた場所が下田であったのも
(江戸から離しておきたいという考えはあったものの)下田が殷賑極める港町なればこそ
だったのではないでしょうか(もっとも米国側からみてどう評価されるかは別として)。


ところで、当時の船主は単に荷物を預かって送り届けるという運送業に従事していただけでは
どうやらなかったそうですね。単純に輸送を請け負うことを「運賃積」と言ったそうですが、
これは既定料金で安定した稼ぎに繋がるものの、利は薄い。

そこで、彼らは「買積(かいづみ)」という商売をしていたということなのですね。


つまりは「自ら仕入れた荷物を運んで売却する方法」、これならば商品自体の利幅を船主が
丸取りできるわけですから。ただし、売れなかったら…というリスクは伴いますが。


常滑船は「運賃積」と「買積」とを併用、要するにリスク分散して商売を回していたところ、
明治になって洋式の大型帆船が水運に乗り出すと、立ちどころに厳しい環境に置かれます。

何しろ渋沢栄一が立ち上げた共同運輸会社と岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社とが
熾烈な競争を繰り広げたりするわけですから。


この争いを見かねた?農商務大臣・西郷従道の肝煎りで、何と両社は1885年に合併、
日本郵船会社が誕生する…という情勢の陰で、1883年頃に瀧田家は廻船事業から撤退したとか。


このことは瀧田家のみならず、日本各地で地場に根差した海運・水運を手がけてきた業者を
軒並み廃業に追い込んだのではないですかねえ…。


と、そうした経緯はともかく、瀧田家旧宅は江戸中期の住宅様式を踏襲するものとして、
また往時の常滑船の廻船事業を思い起こさせる場所として

保存され、公開されているのでありました。