かようにスパスカヤ塔を潜り抜けてクレムリン
の城壁の外へ。
再び赤の広場
にやってきましたが、この日は何ともいいお天気。
どうも旅の最終日ばかり好天に恵まれているような気もしますなあ。
前日には霙を避けて入り込んだグム百貨店の前も青空の下では賑わいが違いますね。
で、天気が優れないときには遠望だけでふれもしませんでしたが、
赤の広場といえばやはりこの聖ワシリー大聖堂でありましょうなあ。
ロシア正教の教会によくみられる金のタマネギとは違い色とりどりで、
また形状もバリエーションに富んだ塔頂部は、一目で「ああ、ロシアだな」と思わせるほど
アイコン化しているのではなかろうかと。
これは赤の広場とは反対の側から見た姿ですけれど、
7つの塔がそれぞれに個性を持って造られ、建物としての独自性は抜群なだけに
建てさせたイヴァン雷帝は同様の建物を他に造らせてはならじと建築家の目を潰してしまった…
とはよく聞く話ながら、これはどうやら眉唾ものなようでありますね。
ところで、こうした逸話も残る聖ワシリー大聖堂ですけれど、
元々の名称はポクロフスキー大聖堂というものであるらしい。
それが聖ワシリーと呼ばれるようになった、その聖ワシリーとはユロージヴィのことであるとは
いかにもロシアらしいと申しましょうか。
聖愚者とか瘋癲行者、佯狂者とか訳されるユロージヴィはともすると、
世迷言ばかり言って歩いている単なる物乞いとしか見えないように思うところながら、
これをロシアの民衆は勤行者として扱い、ワシリーのように列聖されることにもなるようで。
ちなみにこのユロージヴィのワシリーは、辻々でイヴァン4世の圧政を非難していたそうな。
雷帝と言われたイヴァン4世でもユロージヴィはお目こぼしとしたのかもしれませんですね。
と、そうした曰くのある聖ワシリー大聖堂の前には大きな像がひとつ置かれてありました。
「ミーニンとポジャルスキーの像」と呼ばれるものだそうです。
内紛の続くロシアの情勢を見て攻め込んだポーランドの軍勢が
1612年にモスクワを占拠してしまった。これに対して、
一介の肉屋ながら周囲の人望の厚かったクジマ・ミーニンは義勇軍を組織、
この軍の指揮をスズダリの貴族であったドミートリー・ポジャルスキーに委ねて戦闘に及び、
ポーランド軍を打ち負かすことができた…ということで二人は救国の英雄となったのだとか。
1818年に建てられたときには赤の広場の中央にあった像ですけれど、
時代を経てソ連の時代となったときに、広場の中央にあったのでは
共産党の集会をやるのに差し障るとスターリンが命じて広場の端にもっていかれたという。
いつか広場の真ん中に戻されるときが来るでありましょうかね。
赤の広場ではもうひとつ、
さほど多くはないにしても観光客が足を止めているところがありました。
この平たい円形で囲われた場所でありまして。
団体行動故の制約(うろちょろしていると置いて行かれる…)で、
これ以上近付くことは不可でしたが、この中には
さほど大きくない円形のお立ち台のようなものが置かれておるのでありますよ。
16世紀に造られた、ロブノエ・メストと呼ばれるこの円形施設のお立ち台では、
ときに皇帝の発する布告が読み上げられ、またときには重罪人の処刑が執り行われる、
とまあそういう場所であったということなのですな。
あのステンカ・ラージン(ロシア民謡で有名ですよね)もここで処刑されたそうですから、
当然にして公開処刑。1671年という時代が時代ですので、
日本で言えば三条河原のような場所でもあったと言えましょうか。
てなことで、やはりお天気がよろしいとあれこれ見て廻るものでして、
前日よりもなお「赤の広場」のことがよおく分かったのでありました。





