日本橋の髙島屋に立ち寄ったのでありますよ。主目的の何たるかは後のお話として、
館内でふと気付けば「髙島屋史料館TOKYO」なる小部屋があるではありませんか。


どうやら「日本橋髙島屋と村野藤吾」展なる展示をやっているということで、
どれどれと、つい覗いてみたくなるわけでありまして。


「日本橋髙島屋と村野藤吾」展@髙島屋史料館TOKYO

日本橋髙島屋は1933年(昭和8年)に日本生命館として建てられた建物にオープンしたと。
この最初期モデルを設計した高橋貞太郎という建築家は、
しばらく前に立ち寄った目黒の
前田侯爵邸洋館 を手がけた人なのですなあ。


ですが、重要文化財として今に留めるその姿は4度にわたる増築を経たもの。
その増築の設計を担当したのが村野藤吾であるということでして、その結果、
上物としての建物だけでなく、内部の隅々、例えば階段の手すりなどにも
細かな配慮が行き届いたものに仕上がったというのですね。

上映されていたビデオを見て、なるほどなあと思いましたですよ。


そも建物自体は「古い造りのビルであるな」とは思っていたですが、
重要文化財であるてな認識もなく、まして手すりをはじめとして内部の隅々に
目を向けたことがなかったものですから、建物ウォッチャーにはなり切れていなかったと、
そういうことになりますなあ。


日本橋髙島屋

とまれ、現在の外観はこうように。
重要文化財たる本館のお隣には現代的な高層ビルが接して、新館を構成している。
(おそらく高層部はオフィスビルか何かでしょう)
本館の屋上でも繋がっているようでしたので(昨今、よくデパートの屋上 に行くなあと我ながら)、
たどり着いてみますれば、花壇が設えてありましたですよ。


日本橋髙島屋屋上の花壇


陽気がいいので花々も元気いっぱいのようすですけれど、
ふと思いついたのは「髙島屋といえば、確かバラだな…」ということ。
COWCOWが有名にした(COWCOWを有名にした?)伊勢丹の紙袋ではありませんが、
髙島屋の包装紙といえばバラだったのではと思い付いたのですね。



そこで、髙島屋とバラとのいわく因縁を探ってみたものの、
さほどに興味深い話ではありませなんだ、残念ながら。
髙島屋のHPにはこんな記述がありましたですよ。

髙島屋のバラの包装紙が誕生したのは、1952年のこと。…バラが採用された理由は、当時の社長・飯田慶三が「美の象徴として愛されるバラの花を、高島屋の花としたい」と考えたのが始まりです。

単に社長の思い付きかあ…と拍子抜けしてしまいましたが、
Wikipediaの「バラ」の項にはかようなことが書かれていて、

背景にはその時代らしさがあったのだなとも想像できるような。

戦後すぐの1948年には銀座でバラの展示会が開かれた。さらに1949年には横浜でバラの展示会が開かれ、そのときにはアメリカから花を空輸して展示用の花がそろえられた。
鳩山一郎や吉田茂などのバラの愛好は、戦後日本でのバラの普及に大いに貢献した。このように戦後の高度成長の波に乗り、バラは嗜好品として庶民にも普及していき、日本でも品種改良が行われるようになった。また、鉄道会社が沿線開発の一環として、バラ園の造営を行うようになり、各地にバラ園が開園された。

当時、バラには勢いがあったのですなあ。

そうしたところにも肖りたいとバラの図案を用いたのかもしれません。


今となっては、髙島屋=バラとして定着したイメージを敢えて変えるということはせず、
髙島屋では図案としては4代目のバラを使っているということでありました。


と、そんなこんなのバラの話はともかくも、

このほど日本橋髙島屋を訪ねた主目的を果たすべく8階催事場へ。
「花の画家」とも呼ばれた堀文子の追悼展を見に行ったわけですが、

これは次のお話ということで。