サンクトペテルブルク滞在2日目のこの日、元来聞かされたいた旅程では
エルミタージュ で4時間ほど、後は旧市街、歴史地区の観光てな話でありました。


しかしながら、エルミタージュでは館内カフェでの昼食小休止を含めて6時間余を過ごし、
(十二分に堪能するにはそれでも全く足りないのですけれど)
結果としてすでに夕刻となった段階で「はてどこへ?」と思ったわけですが、
ツアーバスがまずたどり着いたのはこちらの教会の前でありましたよ。


血の上の救世主教会@サンクトペテルブルク

スパース・ナ・クラヴィー教会、ガイドブックなどには「血の上の救世主教会」とありますな。
何とも穏やかでない名称ですけれど、皇帝アレクサンドル2世がテロに遭って殺害された、
まさにその地に祭壇を設ける形で教会の上物が造られたとなれば、むべなるかなです。


何しろ皇帝殺害現場に祭壇を置くことありき、
そして建物はやはり立派でなくてはと考えられたせいでありましょう、
設計通りでは敷地が足らず、運河にはみ出してしまうから規模を小さく…などとは考えず、
運河を狭めても建ててしまえてなものであったようですなあ。
なるほどはみ出してます。


ところでアレクサンドル2世がテロに倒れたときに、
俗な言い方をしますと「皇帝は町に殺された」的な言われようがあったのだとか。


意味するところは、ピョートル大帝が町を築き始めて以来、サンクトペテルブルクは
西洋風の建物、町並みを意識してロシア的なるものを排除してきたが故に

呪いを受けている…てな話であったかどうかは分かりませんけれど、

いささかのロシア的なるもの回帰が起こったようで。


実際、父を弔うため教会を建てることにした息子のアレクサンドル3世は
ロシアのスタイルとすることにこだわりを見せたようではありますよ。


教会建築でも、サンクトペテルブルクでは先に見たチェシメ教会イサーク大聖堂 のように、
ロシア風なタマネギ屋根が無いものが見られるところながら、
この「血の上の救世主教会」は何とも見事なタマネギが9つも乗っかっているという。


それがために、サンクトペテルブルクの知識層といいますか
先ほどの呪い的なものを一切信じない人たちだと思いますが、
西欧的な町にあって景観を損ねるものとさえ考えた向きもあったようです。


とまれ、皇帝が父である先帝を弔うための建物ですから、内部も相当に贅を凝らしたようす。
細密なモザイク画が描かれている…ということなんですが、ここも旅程上、
外側を見るだけの時間しか与えられておらず、外壁を見るだけに留まらざるを得ず…。

なんでも現在、内部はモザイクの博物館となっているのだそうです。


他の教会同様に、ロシア革命後にはこの教会も本来を機能が失われ、

倉庫として使用されたとか。しかしながら、

他の教会がソ連崩壊を経てロシア正教の教会として蘇ったのとはちと事情が異なり、
今でも教会でなく、博物館として使われているというのですね。


ひとえにロマノフ家の所有する個人的な慰霊の場所だったものであって、

公的な礼拝の場所ではないと受け止められたことが理由としてあるようです。


というところで、ひとつ思い出しましたですが、
この教会はアレクサンドル3世が建てさせたと言いましたですが、

完成はその息子のニコライ2世の代になってから。


そしてそのニコライ2世は、辛うじて命を落としはしなかったものの、

テロに遭っていますですね。日本来訪時の大津事件です。


で、実はエルミタージュの展示品の中に、ニコライ2世が大津事件で

切り付けられた際に来ていたシャツというのがありましたですよ。



襟元とその近辺に飛び散った血痕。かようなものが残されているのですなあ。
妙に大津事件が生々しく思えてきたところですけれど、

これも歴史的事実の証しということではありましょう。