四国へ出かけている間に録画していたTV番組を少しずつ消化していっておりますが、
Eテレ「古典芸能への招待」
では能のパリ公演のようすが取り上げられていましたですね。
歳を重ねてきた結果でもあらんか、あれこれの古典芸能をつまみ食いしたりする昨今ながら
こと能に限っては今でも敷居が高いと申しますか。
日本人でさえそうであるのに、パリ公演の観客はもっぱらフランス人なわけですね。
いったい全体、どうしたことがトリガーとなって「能に出かけてみよう」と
パリの人たちが考えたものか。知らないものへの興味、好奇心といったところでしょうか。
それにしても公演後にマイクを向けられた観客たちは一様に「すばらしい!」と。
こうした感想を耳にして、ついつい「本当に分かったのかな…」と思ったりするところながら、
(かくいう日本人の自分が「本当に分かったのかな?」なのですが)
考え方として「わかる、わからない」を尺度としないのはありだなとは思うのですよね。
つまり「わかる、わからない」は脇へ置いておいて
「(わからないにしても)何となく面白い」とかいう受け止め方。
コンテンポラリーアートに接するときにはこんな感じで臨まないと
「わけがわからん」で終わってしまうことと同じなのではないですかねえ、きっと。
とまあ、かような話の展開でタイトルに「邦楽は現代音楽でもあろうか」と持ってきた…
のではないのでありまして、ここでは能「砧」の伴奏たる笛、太鼓を聴いているときに
考えたことなのでありますよ。
西洋音楽は基本的には拍子が刻まれ、いわばキチンキチンと規則正しく進んでいきますね。
時には進行を止めたり、速さを緩めたり速めたりはしますけれど、
それらも含めて楽譜に従うことを前提としています。
ところが、ここでの笛、太鼓は(能に付けられた劇伴だからなお一層ではあるにせよ)
かなり自律的な動きを示しているなと思ったのでありますよ。
笛がぴーとなり、太鼓がとんとんと。
そして、太鼓や鼓の人たちが「いよぉ~」とか「おお」とか合いの手を入れる。
これらは能の役者が台詞をしゃべっていようとも、いわばお構いなしのようすで
運ばれているように窺えるのですね。
ともすれば台詞にかぶってよく聞こえんてなことにもなるような気がするところながら、
そうした被りもまたパフォーマンスのひとつとして全体を作り出している。
無理やり西洋音楽に擬えるわけではありませんですが、不協和音の効果とでも言いますか。
この、必ずしも協和音を意識しないというあり方、純粋に音楽としてみてみれば
そもそも邦楽器の出す音が五線紙に記録しやすいようにはできていないわけで、
西洋の音程からすれば半音はおろか、四分の一音、十六分の一音ずれた音もまた
効果的に使うわけですね。
そんなことを思いつつなおのこと音楽の方に耳を傾けてみますと、
19世紀の後期ロマン派(例えばマーラーやリヒァルト・シュトラウス)の音楽が
多様な音を足しましして分厚い響きを作り出していった先に、逆の発想として?
何ともシンプルな音を提示する形が現代音楽の中に出てきますですね。
とっても間が多くある中で、時折パーカッションがカンとかキンとか鳴り、
フルートなんかが(あたかも尺八のような音色で)ひゃぁ~と吹き鳴らされる。
そんな音楽がいっとき確実にあったように思うわけです。
絵画の世界ではジャポニスムの影響云々とよく言われるところですけれど、
この「間」との間合いを図るようなシンプルな(ある種、スカスカな)音楽は
もしかして音楽のジャポニスムだったりするのかなと思ったりしたのでありますよ。
(もちろん日本ばかりでなくガムランなどの影響だったりすることも考えられますが)
ちなみに、本格的な能の海外公演は1954年のヴェネツィアであったそうです。
このときに能に触れた西洋の前衛作曲家たちがいたのかどうかは分かりませんけれど、
例えば活動の時期から言ってピエール・ブーレーズあたりは何らかの形で触れたかも…と
妄想をたくましくしたものなのでありました。