5月末に放送されたEテレ「古典芸能への招待」 は「能」でありましたなあ。
かなり俗っぽいところまで含めて伝統芸能をのぞき見することには
わりと積極的に臨んでいるのですけれど、中で「能」はなかなかどうしてすっとは来ない。
それでも(時には辛抱したりもしながら?)触れる機会を設けておりますと、
バレエ や舞踊 のように何となく分かった気になることもあるのではと思っておりますよ。
で、そのときの番組では復曲能「大般若」という作品が取り上げられていまして、
復曲というからには長らく上演が途絶えて、そもそもどういう形であったかも忘れられるとかして
埋もれてしまった作品を復活上演しよう、とまあ、そういうことなのでしょう。
先にも触れた「能」の「なかなかどうしてすっとは来ない」部分というのがその幽玄なる世界でして、
そうしたなかにこそ纏綿たる情緒を窺い知ることになるのやもとは想像するばかり。
想像が現実の感覚とはなってこないわけですが、番組で放送された「大般若」を見て、
「おや?ようすが違うような…」と思ったのですね。
「四世(梅若)実が復活させた、シルクロードを舞台にしたスペクタクルな能」と
番組解説にもありますように、スケールの大きさが感じられるのですね。
ご存知のように能舞台には特段の装置もありませんから、
見る側が想像で補う要素が非常に強いわけですが、
玄奘三蔵が「大般若経」を求める旅の果てに、深沙(流砂と想定される)にたどり着き、
これを超えれば天竺で経が手に入れられるかという状況下で、
経を守る深沙大王と相対して…となるお話はシルクロードの砂や岩の山、
そしてまた旅路の苦難をも思い浮かべたりするところなのでありますよ。
こうしたシチュエーションというのは、どうも怨念の、幽霊のという
「能」の常なる幽玄世界とはひと味もふた味も違うような。
だからこそ多少なりとも、個人的には食いつけたということになりましょうか。
と、ここで翻って考えてみますと、この「大般若」なる曲は
このほど復曲されるまで日が当たることがなかったのですから、
あまり上演される機会がなく埋もれていってしまった作品のひとつでもあるわけですね。
なぜそうなったのかは定かでないとしても、やはり人気が無かったのでもあろうかと。
つまり現代人からすればスケールが大きいとしてそれなりに受け止める筋立てが
当時に人にはかえって「能っぽくない」と思われたりしたのでもありましょうかね。
そんなふうに受け止めると、「能らしい能」にはまだまだ手が出しにくいなあと思ったり。
ま、他の芸能同様にこれから慣れていくこともあるのではなかろうかと思ってますが、
はたしていかに…。