かつて八王子の村内美術館
にはバルビゾン派周辺の画家たちの作品がたくさん展示され、
その中でドービニーの作品も目にしていたものと思うのですよね。
ですが、ミレーやコローあるいはテオドール・ルソーなどに比べて、
ドービニーの作品を思い出すことができない。いちばん印象に残るイメージは
アトリエ船の中で絵筆を持ったドービニーの姿を描いた版画でしょうか。
これが、外光を受けてシルエットになり、すこしかがんで
山羊ひげを蓄えた老人にも見えることから「うむむ、魔法使いか?!」てなふうにも思い、
頑固爺でもあるかと勝手に思い込んでいたですが、どうやらまるで違うようで。
これまで日本で個展が開催されることのなかったドービニーということですけれど、
没後140年にしてようやっと開催されている回顧展を
東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館で見ることで、どうやら軌道修正できたようです。
個人的誤解の元となったこの「アトリエ船」と題されたエッチングは、
実のところは「船の旅」という版画集であって、見習水夫に任命した息子のシャルルとともに
川から川をわたる船の旅をしたときの様子を描いた連作の中の一枚だったのですなあ。
息子にも責任ある役割をふって、
楽しくも子供の成長への関わりを持って旅するドービニーの姿は
頑固爺どころではなかった…と気付かされたのでありました。
もちろんこの船の旅は物見遊山ではなくして、
ドービニーにとって絵画制作の現場であったわけですが、外へ出て光をとらえて描くこと、
そしてそれまでのアカデミスムに従ったすべすべの仕上げでなくして
筆跡を残す描き方など、後の印象派を勇気づける取り組みをしていたようで。
ドービニーがアトリエ船「ボタン号」を手に入れ、船に乗ったまま描くようになったのは1857年。
「印象」を「荒描き」したにすぎない「未完成」と非難されたりしながらも、
サロンに入選するようになり、やがて1866年には何とサロンの審査員になるのですよね。
何とかドービニーを受け入れたサロンも、
後に印象派と呼ばれるような画家たちの作品までを許容することはできなかったのでしょう。
モネが「印象・日の出」を発表して物議を醸すのが1872年、
ドービニーの手法を加速度的に進めたような絵画は
まだこのとき受け入れられなかったということですなあ。
ですが、ドービニー自身は若い世代の実験的精神を評価していたのでしょうね。
若手の画家たちを積極的に支援したのだとか。
1866年にはセザンヌやルノワールに「落選者のサロン」を開催してはどうかと勧めてみたり、
1870年にはモネの絵を入選させなかったサロンの審査員を辞任してしまったりと
エピソードはあれこれあるようです。
だからといってドービニーの作品は、若手の先行していくようすを見守りながら
(このあたり、息子に見習水夫を任命したりという子供との関わりを思い出せますね)
確かな風景画家としてありようは変わらなかったようでもありますね。
(時には新しい手法を試みに借りてみたのかなという作品も展示で見ることはできましたが)
これは1843年以降、フォンテーヌブローの森で制作を始めた頃に
コローと親交を結ぶようになり、生涯の友人となったこととも関係がありそうな。
何しろ親友といっても、コローは1796年生まれでドービニーは1817年生まれですから
20歳以上もコローは年上の大先輩画家、ドービニーは敬愛していたのでもあろうかと
思うところです。
コローにアトリエ船の名誉提督となってもらったことはご愛敬としても、
ドービニーは亡くなる際、パリのペール・ラシェーズ墓地に眠るコローの隣に
葬られることを望んだとか。実際にお墓は隣同士に立っているそうでありますよ。
若い世代の挑戦は支援しつつも、コローが描き出したような自然を写すこと。
アカデミスムでは低いものに位置付けられる風景画が広く一般に好まれるようになる中では
産業化や都市改造によって田園風景が失われていく状況がありましたですが、
その環境変化は増していくばかりであったことでしょう。
と、なればいつまでもコローともども自然の姿をキャンバスに留めることに
ドービニーは執心するところがあったのではないかと思えたりするのですなあ。
初期から晩年までの作品が展示される中を逍遥しつつ、
そんなあれこれを考えたドービニー展なのでありました。