江戸東京たてもの園
でお次に覗いてみますのは、
入口に唐破風屋根を設えた立派なお寺…でなくして銭湯なのですね。
個人的には、唐破風で思い出すのは銭湯の方が先な気もしておりますよ。
建物は、昭和4年(1929年)に千住で開業したという子宝湯。
内部は昭和30年代の銭湯の様子を再現しているそうなんですが、どれどれと。
脱衣場は衣服を脱いで入れる棚がフロア中央には無いのですなあ。
奥側の壁沿いに設えられてありますのは、より古い形なのでしょうかね。
竹で編んだ脱衣籠がやがて鍵付きロッカーになる過程でフロア中央に移ったのでしょうか。
銭湯お決まりの体重計は奥の方にしっかりと置かれていましたな。
それにしても、男湯・女湯の仕切り壁には大きな鏡があるのはその通りとして、
その上に並ぶ広告に、知っているものがひとつもないとは…。
別の壁面には映画館の広告が貼ってありましたけれど、これまた知っている映画が少ない。
昭和30年代を再現と言いますから、1956~1965年あたりに公開された映画と思われるも、
分かるのは「避暑地の出来事」くらいですかねえ。
それはともかく浴室へと入ってみますと、これはもうお風呂屋さんのお決まりですね。
浴槽の背後を飾る大きなペンキ絵、やっぱり富士山
ですなあ。
解説によりますと、1912年(大正元年)に神田猿楽町の銭湯で
浴室の壁がさみしいことを理由に描いてもらったことが始まりであるそうな。
それがあたかもお風呂屋さんのアイコンのように広まって…と考えるのは、東京だからでしょうか。
「ペンキ絵は東京周辺で多いが、新潟県や岡山県にも見られる」という説明文からして、
東京以外では稀なことで、新潟や岡山で多少見られる程度てなふうにも受け止められます。
お風呂屋さんのペンキ絵は全国区ではなかったのかもしれませんですねえ。
一方で、ペンキ絵とは別にタイル絵というのもあるそうなのですなあ。
どんなものかは展示解説から引用で。
おもに男湯と女湯の境にあたる部分に絵が描かれたタイルがはめこまれている。大正から昭和にかけて、東京の先進的な銭湯が取り入れたタイル絵という装飾である。ほとんどが九谷で焼かれ、現在みることのできるタイル絵は、多くが昭和30年代までに造られたものである。山水、鯉、さまざまな物語をモチーフとしているタイル絵は、ペンキ絵と並んで銭湯をめぐる文化のひとつといえる。
このタイル絵なるもの、個人的にはいささかも記憶に無いのですが、
単に忘れてしまったのか、それとも通ったことのある銭湯が「先進的」ではなかったのか…。
ところで、銭湯の始まりは「少なくとも鎌倉時代まで遡ることができる」のだとか。
今では「風呂に入る」といえばざんぶとお湯につかるものと理解しますけれど、
古くは「風呂」と「湯」が使い分けられており、「風呂」はもっぱら蒸気浴を意味し、
「湯」が沐浴を表していたというのですね。
少量の水で済む蒸気浴が一般的であったのが、
鎌倉時代には湯も始まっていたとの記録があるところから銭湯の始まりを
ここでは鎌倉時代と説明していたということのようで。
この段階では湯につかることを「風呂に入る」とは言ってなかったのでしょう、
江戸時代になると落語に銭湯らしき場面が出てきますけれど、
長屋の連中が「湯に行ってくらあ」てな調子だったのも、この延長線でしょうか。
ただ式亭三馬に「浮世風呂」なんつう本があるわけで、
結構ごったに使われ始めていたのでもありましょうかね。
とまれ、こうしたお江戸の銭湯は「庶民にとって身近な交流の場」であって、
2階では「湯茶や菓子が出され、浄瑠璃語りや生花の会などの場にもなった」と言いますから、
差し詰め現代の日帰り温浴施設みたいなものでもあるような。
高度成長期に家庭に内風呂が増えて、銭湯は一気に減っていったように思いますが、
近頃はまた(銭湯というにはいささか大規模ですが)レジャーランド的に復活してきている気も。
そうした風潮に時折思うことなんですが、船橋ヘルスセンターが今もあれば
相当な賑わいある施設になっているだろうになあと。
もっとも船橋ヘルスセンター閉園の理由は客が減ったことばかりではなくして、
地下からの温泉汲み上げが地盤沈下を招くとされたことのようですけれど…。