外宮界隈 をぶらりとしたあとは伊勢市駅の前を通り過ぎ、

JR参宮線、近鉄山田線の踏切を越えて町の反対側へ。
あたりは一気に神宮色?が薄れて、単なる地方都市感が強くなりますが、

ふと目の前にはかような石柱が。

山田奉行所跡の石柱


今ではすっかりスーパーの駐車場ですけれど、石柱には「山田奉行所跡」とあります。
江戸幕府がいろいろな意味で重要な土地と考えた各地に

直轄の遠国奉行を配置しましたけれど、山田奉行もそのひとつ。

日光奉行と同格であったと言いますから、重視された役職でしょうか。


江戸町奉行になる前の大岡忠相 も務めたことがありますですね。
もっとも忠相が着任した頃、奉行所は宮川の河口付近に移転してしまっていたようですが。


Wikipediaによれば「伊勢神宮の守護」をその役割のひとつとして

山田奉行は遷宮の仕切りにも関わったとか。


幕府が伊勢神宮を大事に考えたのは「そりゃあ、伊勢神宮だし」ということはもちろんとして、
鎌倉幕府の頼朝が伊勢神宮を大事にしたことに倣ってのことでもあろうかと。
元来、伊勢平氏の土地柄ということなれば、

源家としては伊勢神宮を取り込んでおく必要があったようです。


それはともかく、遷宮は20年に一度なわけですし、

神宮守護も日常的なルーティーンワークと思しき中で
山田奉行の働きどころは「門前町の支配」ということであったかもしれません。


先にも触れましたように全国からやってくるお伊勢参りの一行を引き受ける町には
御師による旅行業に携わる人たちも住み、さまざまなお店や遊郭までできて、

江戸期には三万人もの人口を抱える町になっていたそうなのでありますよ、山田の町は。


と、ここで山田の町と言いましたですが、

伊勢神宮の門前町として内宮には宇治、外宮には山田があって、
近鉄で伊勢市駅のお隣にある宇治山田という駅名はそこから来ているとか。
そもそも伊勢市自体がかつては宇治山田市という名称であったそうですし。


とまれ、かように多くの人口を擁する町であれば、

当然にして住まっている人たちの生活物資が必要ですし、
これに輪をかけてお伊勢参りの人たちが消費するあれこれも必要になる。

活躍するのは商人でありますね。


この山田奉行所跡の面する大きな通りを右に折れ、

裏道をしばらく行きますと勢田川に達するのですけれど、
その川に沿うように河崎本通りという旧道が通っておりまして、

商人が集住したエリアだったとか。なんでも「お伊勢さんの台所」と言われたということです。


現在の勢田川


川辺の道にあった案内板によりますと、
「河崎は中世以降、勢田川の水運を利用して繁栄した歴史のある問屋街」であることとともに
このような説明がされておりましたよ。

荷物を積んだ舟は、勢田川を遡ってここ河崎に至り、その荷物は、川に向かって開いている蔵へ舟から直接納められたり、川沿いにつくられた河岸で荷物の揚げ降ろしが行われたりしました。


勢田川に面した河崎の蔵

水路から直接倉庫に搬入するのは重い荷を運ぶ手間を極力省く方法で、
考えることはどこでも同じなのでしょう、ついついアムステルダム を思い出すところです。


それはともかく、上の写真で船溜まりから奥へ続く路地の先、本通りの方へ廻ってみますと、

昔ながらの佇まいが広がっておりましたですよ。




例えば中山道の奈良井宿 ですとか、

町並みごと保存するというのはなかなかに苦労があるところでしょうけれど、
古い家屋を利用して今現在も何らかの商い(多くは観光客相手にしても)をして

町を廃れさせないという心意気が感じられるような気がしたものです。


そんな昔ながらの商家のひとつが「伊勢河崎商人館」として公開されておりましたので

訪ねてみましたら、これがまあ、なんとも展示が盛りだくさん(その話は次回に)。


現代のお伊勢参りでは、ついでの観光に足を延ばす先はたくさんあるところながら、
変に欲張るのでなくして、河崎あたりの散策で歴史に思いを馳せるのも一興かと。
ま、個人的にはその選択故に「山田奉行所記念館」に行けなかったのは

ちと心残りではありますが、伊勢市駅徒歩40分となりますと、

なかなか時間的に厳しかったもので…。