さて、外宮 を北御門口から出て町中歩きということに。
旧参宮街道を少々歩いてみますと、
外宮への参道商店街ほどには観光客を意識した設えは無いものの
逆に昔々の人たちが街道を行き来する中で足を止めたのかもと思われる建物がちらりほらり。



かまぼこ屋さんに呉服屋さん。そんな街道沿いで
ひときわ目を引きましたのがこちらの建物でありますよ。


小西萬金丹本舗

正面に回ってみますと「臨時休業」の札が掛かっているものの、店先は中が覗ける状態に。
普段はまちかど博物館として見学もできるはずである「小西萬金丹本舗」がここだったのですなあ。



子どもの頃に「鼻くそ丸めて萬金丹」なんつう言葉だけは聞いたという記憶があるだけに、
それほどに有名な薬だったのだろうと想像しますが、薬草由来の生薬から作られた丸薬で
主に胃腸薬として使われたとかいうことでありますよ。
ちなみに店前に立つ案内板にはこのように。

江戸時代前期にはじまり、お伊勢参宮とともに、全国にその名を知られた萬金丹は、三百年以上に亙って家庭や旅行のお伴として皆様に親しまれてきました。小西萬金丹本舗は、伊勢国司・北畠教郷の家臣日置越後守清久に始まります。主家滅亡後清久は医道に志し、境の小西家の秘方を譲り受け小西姓と改め、延宝四年伊勢国八日市場の地(現在の場所)に創業、以来十六代にわたってこの地で営業してまいりました。最盛期には、四日市、京都、江戸、近江、草津、伊賀に出店を設け、享保年間には宮家より大和大掾の名を賜り、明治維新までの八代の間、小西大和大掾と称してきました。
また、現在の店舗は江戸期伊勢に独特の宮大工による「切妻造り」の代表的建築物として昔を今に伝えています。

先ほど引用した言葉は

本来「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて萬金丹」と、セットで語られるようなのですが、
越中富山はご存知のように置き薬で有名で、行商によって全国へ広まることになる一方、
萬金丹の方は行商に頼らなくとも全国区の知名度を得られたのは

ひとえにお伊勢参りの人たちが 土産物として持ち帰り、広めたということになりますかね。


とまあ、かような萬金丹本舗から今度は裏道へと踏み込んでみますと、
「伊勢和紙館」という看板とともに「神宮御用紙製造場」の石柱がありましたですよ。
(ここもどうやらお休みしているようでしたが、どうもついてないような…)


伊勢和紙館・神宮御用紙製造場

古来、伊勢神宮のお札などに使用するための紙漉きが小さな規模で行われていたそうですが、
明治になって「御師」の制度が廃止されるとき、廃業の危機に立たされた御師たちの一部が

製糸業に乗り出したそうな。


ですので、今では「伊勢和紙館」の看板があるこの場所も

かつては龍太夫という御師の邸だったということで。


御師龍太夫邸跡

またまた中公新書「斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史」 に頼ってみますと、

元々は「神宮の権禰宜という肩書きを持つ下級神人」が「鎌倉時代ころより

「御師(伊勢では「おんし」と読む)」と名乗り、全国に伊勢神宮の信仰を布教し、
参宮を勧めてきた」ということながら、やがて「御師」たる株が売買されるようになると
商売上手な人たちがサービス業的展開を図るようになっていったとか。


「参詣者を案内し、自らの屋敷に宿泊させて手数料を取ること、

つまりツアーコンダクター兼ホテルオーナーという立場で、

より商業的に伊勢信仰に関わっていく」ようになった御師の存在は、
お伊勢参りの大衆化にさぞ貢献したことでありましょう。


先に見た街道沿いの呉服屋さんですが、

上の写真でも何とか中央の門脇に石柱が見えましょうか。
書かれてある文字は「御師福島みさき大夫邸跡」でして、ここも元は御師だったという。

界隈には他にも御師邸跡があるようですから、かつては一大ホテル街だったわけですなあ。


さぞ大層な賑わいであったろうと想像しますが、

今では歩いていても人で出会うことが全くない静けさ。
外宮を見る限り、そこそこに参詣者はいましたけれど、

町ぐるみの賑わいは今は昔の物語となったのでありましょう…。