斎宮歴史博物館

ということで斎宮歴史博物館にたどり着きました。
近しい辺りに斎宮跡 はもちろんとして、塚山古墳群 などもある場所柄だけに、
博物館もまた遺跡の上に建てられているのですなあ。



極めて見難い写真ですが、透明なアクリルで博物館の建物が示され、
その下に描かれた地図は何やら穴ぼこだらけの印象かと。
これが全て遺跡、遺構であるというのですから、

掘れば必ず何かが見つかるエリアでもありましょう。


出土品の並ぶ展示室@斎宮歴史博物館

そこで発掘調査による出土品の展示を見ていくわけでして、
まずはこちら「円面硯」(えんめんけん)というものだそうでありますよ。


蹄脚円面硯@斎宮歴史博物館

円形の上部平面が墨を擦るための硯であるところから、円面硯。
「特に台座の部分が「馬の蹄の形に似ているところから蹄脚円面硯とも呼ばれ」るそうな。


解説に曰く「平城京跡などの奈良時代における国の中心地から出土してい」るところから、

「幻の宮」とされた斎宮がこの地にあったと解明されるきっかけになった「記念碑的出土品」とか。

ただ、実際に出土したのは手前に見えるかけらだけ(立派な方は復元品)なのですけれど。


ところで、先に見た斎宮跡の1/10全体模型はもっぱら平安朝のものだったわけですが、

伝承ではない斎王の始まりは天武天皇の時代(673年)、娘の大来皇女(おおくのひめみこ)を

伊勢に下向させたときとされていて、この地の発掘で見つかったいちばん古い遺跡はまさに

7世紀末期なのだそうです。



こちらの出土品は左が奈良時代のもの、右は平安時代のものということですけれど、

それぞれ「羊形硯」、「鳥形硯」であるとは、これまたやっぱり硯なのですなあ。


動物を象ったものを装飾豊かと言ってよいやらですが、

手が込んでいることだけは確かでこれが日常的に使われたものなのかは分かりませんけれど、

硯自体は日常的に使われるからこそ手の込んだ品物は珍重されるてなところでもあろうかと。


で、硯が使われるのは当然にして字を書くためでしょうから、

「字のかける人、つかり官人が増加した」ということは、

斎宮の事務組織でもある斎宮寮の組織が整ってきた、

ひいては斎宮が安定的になってきたということを偲ぶよすがとなるように思うところです。


硯が出土する一方で、平安期の遺跡からは

「墨書土器」と言われる墨文字の書かれた土器が多く出土するようになるとか。

10世紀のものにはひらがな文字も見られて、かな文字は「女手」ともいわれるところから

斎王近くに字に堪能な女性たちが仕えていたことが想像されるわけですな。


墨書土器@斎宮歴史博物館

かな文字で書かれた(漢字かな混じり文だったとも)と言われる「源氏物語」で

六条御息所のモデルとされる徽子女王は朱雀帝時代に斎王でしたけれど、

まさにその当時の斎宮では斎王に仕えた女性たちが

墨書土器に文字を書いていたのかもしれませんですね。


ところで、斎宮跡から土器の類はたぁくさん出土するわけですが、

斎宮最初期に素焼きの土器であったりしたものが9世紀になってきますと

「緑のうわぐすりをかけた緑釉陶器、溶けた灰を使った灰釉陶器などが見られるようになる」と。


緑釉陶器 陰刻花文稜椀(平安時代)@斎宮跡 緑釉陶器 花文蓋

いささかそっけない素焼きに比べて、緑釉の色合いは

さぞ斎宮でもてはやされたのではと想像するところですけれど、

解説には「これらの陶器は、愛知県の猿投窯や京都周辺の窯の製品が多く」とありました。


斎宮にはいろいろと都とのつながりがあったでしょうから京都から品が入るのは当然として、

愛知県の猿投からとは地の利の故でもありましょうか。


以前の仕事の出張で豊田市に行く際、

地下鉄鶴舞線から直通している名鉄三河線に「猿投」という駅があり「さなげ」と読むのかあと

地名だけは記憶に残ったのですが、その猿投が日本三大古窯のひとつであったとは。


Wikipediaによれば「古墳時代後期から鎌倉時代初期まで、

700年余の長きにわたり焼き物の生産を続け」たという猿投窯は

祭祀から日用までさまざまな場面に用いる御用陶器を供給していたのでしょうなあ。


解説に「生産地と消費地のネットワークが作られていたらしい」とありましたですが、

今では愛知県から伊勢に製品を運ぶのに陸送を思い浮かべるところながら、

当時は伊勢湾を渡って船で運ばれたのかもしらんなあと想像したりもするのでありました。


とまれ、斎宮歴史博物館での見聞はも少し続きます。